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2018年6月10日 (日)

一二世紀前半の石見国司2

 尹経自身は保安三年に四二才で死亡した父の跡を追う形で、大治三年には安芸守であったことが確認できる。次いで石見守に遷任したが、わずか九ヶ月で卜部兼仲と交替した。保延三年末まで八年半石見守を務めた兼仲は梅宮社務卜部兼季の孫で、白河院の北面の武士を務める一方で、待賢門院に対する成功により石見守の地位を得たと思われる。当時の石見国は待賢門院の分国ではなかったか。この仲兼が在任した八年間の間に後の長野庄につながる庄園の立券と寄進が行われた可能性がある。
 保延四年初に卜部仲兼は藤原宗長と入れ替わって和泉守に遷任しているが、宗長の父宗兼もまた和泉守を務めていた。その姉妹である女子は家保の室で家成の母であり、且つ待賢門院の子崇徳の乳母でもあった。宗長の姉妹である宗子は平忠盛の正室で、忠盛が待賢門院別当であったこともあり、崇徳の子重仁の乳母となった。このように宗長もまた待賢門院の関係者であり、和泉国も院分国であったと思われる。
 一二世紀前半は白河院・待賢門院の関係者が石見守であったが、天養二年(一一四四)初に大和国から知行国主藤原忠通と国守源清忠が石見国に遷任してきた。ところがわずか一年で忠通の父忠実に知行国主は交替し、国守には忠実の側近である源雅国の子国保が補任された。忠通は正室藤原宗子の間に生まれた子が早世し、妾室との間に生まれた二人は出家と、後継者たる男子に恵まれていなかったため、二三才年下の弟頼長を養子としていた。それが康治二年(一一四三)に基実が誕生したため、頼長との養子関係を事実上破棄し、頼長並びにこれを寵愛する父忠実との間に亀裂が広がっていく。そうした中での知行国主の奪取・交替であった。これに対して忠通は知行国であった豊後国の国守源季兼を久安六年(一一五〇)には対馬守に遷任させ、国保の二期八年が終了した仁平四年(一一五四)初めに、季兼を石見守として石見国を知行国として回復した。これにたいして忠実・国保は対馬国に転じたが、保元の乱(一一五六)により、忠実の知行国としての対馬国は失われた可能性が高い。石見国については保元二年に儒者で忠通の家司であった藤原南家の永範が忠通のもとで石見守を四年間務めたが、その一方で保延五年(一一三九)に文章博士となったことを契機に鳥羽院との関係を深め、次いで近衛天皇の死により即位した後白河天皇とその子二条天皇の御侍読を務めたことにより、長寛二年(一一六四)には大宰大弐に就任し、仁安三年(一一六八)には従三位公卿となった。

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