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2018年6月10日 (日)

一二世紀前半の隠岐国司

 この時期の隠岐国司についての史料は乏しいが、元永元年正月の除目で藤原実盛が国功により補任されている。右兵衞尉を経て承徳三年正月に左衛門尉に進み、白河院の北面を務めていた(康和三年五月一六日検非違使=殿暦)康和五年一月六日叙爵=本朝世紀)。元永二年正月の除目で河内守に遷任しているが、ここも一年未満で交替している(米谷氏:河内守とは別人)。保安二年には所領の開発を行っていた伊賀国の在庁官人から訴えられている(この左衛門大夫実盛は別人、久安元年閏一〇月三〇日に俄に出家)。次いで大治元年末には藤原資定が隠岐守に補任されている。資定は左近衛府の主典を務める一方で北面であり、元永二年八月一七日に内裏で舞楽があった際には舞を行っている。資定もまた武士であった。 
 これに対して大治五年正月の除目で隠岐守に補任された中原師遠は儒学者として明経博士となり、父師平以来の大外記を三〇年間にわたって務めた文士である。一方では摂関家政所(忠実・忠実)別当を務めたが、隠岐守補任の年の八月に六一才で死亡した。長禄元年一一月に隠岐守現任が確認できる大江行重は検非違使を務める一方で白河院庁の主典代であった。大治二年から四年にかけては河内守を務めている。その娘が儒者で石見守となった藤原永範の室となっている。保延元年六月二六日にはその後任で子と思われる大江遠兼が現任しているが、前年閏一二月三〇日に重任した大江某は遠兼であり、行重の隠岐守在任は短期間であったと思われる(遠兼への交替は誤りであった)。
  保延四年五月二〇日鳥羽院庁下文の署判者として隠岐守藤原朝臣がみえるが、藤原実光の子資憲である。康治元年末には下野守に現任しているが、短期間ではなく一定期間隠岐守に在任した後に下野守に遷任した可能性が大きい(後述のように隠岐守の根拠となる史料は誤りであった)。康治三年末に下野守を辞任しているが、それは出雲国揖屋社の寄進・立券を行うためであり、その後任は藤原宗長であったと思われる。この時期の隠岐国は待賢門院の、下野国は崇徳院(永治元年末に退位)の分国であった可能性が高い。次いで
久安三年閏六月から五年一一月にかけて藤原信盛の隠岐守現任が確認できるが、この時点では美福門院の分国であったことはすでに述べた。
 仁平二年二月に信盛が上野守に補任され、隠岐守には藤原家輔が補任されている。美福門院の分国が上野国となったことで、信盛が遷任した。これに対して家輔は家長の子である。保元物語では家長を崇德・頼長方とするが誤りである。久寿元年に現任している「宗輔」も家輔の誤りであり、(引き続き美福門院の分国としたのを訂正)、保元二年正月二四日には源雅範が隠岐守に補任されたが、この間のことは既に述べた。

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