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2018年6月30日 (土)

揖屋社の領家2

 よって、この時期の但馬守に関する明証はないが、久安二年一二月二九日に出雲守藤原光隆と入れ替わって遷任した藤原経隆が、光隆と同様に重任して但馬守を二期八年務めた可能性が高い。康治三年正月の下文の署判者は但馬守で、経隆に比定できる。経隆の父基隆は大治三一二月年の待賢門院庁牒の、兄忠隆は保延元年五月の庁下文の署判者としてみえている。出雲守藤原光隆については、その父清隆が待賢門院庁の別当で、保延元年五月の庁下文の署判者としてみえている。
  以前述べた点を修正・補充したが、以下では藤原資憲以降の領家について述べる。その判断材料となるのは、建久一〇年四月日某家政所下文である。当時の領家が三位以上の公卿であったことがわかるが、資憲の子孫中、男系にはこの時点で公卿となった人物は確認できない。これに対して、女系では資憲の娘と平教盛との間に生まれた教子ならびに、その夫藤原範季が三位となっている。教子については日時が不明だが、範季との間に生まれた重子が建久八年九月に鳥羽天皇の第二皇子(順徳天皇)を産むと、範季が一二月には従三位に叙されており、教子も同じ時期であろう。
 ということで、揖屋庄領家は女系である教子ないしはその夫である範季に受け継がれていた可能性が高い。そして重子の同母弟範茂は甥である順徳天皇の近臣として、承久二年には参議に補任されて公卿となったが、承久の乱への関わりが深かったため、乱後、処刑された。揖屋社の管理にあたっていた武士も京方となり、その没収された跡に東国御家人安東氏が地頭に補任された。ちなみに建久一〇年の政所下文に別当としてみえる「散位皇后宮大属大江朝臣」は養和元年から文治四年にかけての後白河院庁下文に「主典代織部正兼皇后宮大属大江朝臣」と署判している大江景宗であろう。

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