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2018年6月 6日 (水)

石見国司と御神本氏3

 いままで自身は注目してこなかったが、西田氏は益田兼栄の子兼高の姉妹である女子に「大貫三郎清滝静基妻」と注記されていることに言及されていた。静基が一〇世紀に出雲国押領使に補任された清滝静平の子孫とされ、出雲国と石見国の武士間の交流を指摘された。それそのものには問題は無いが、出雲国内には「大貫」という地名は存在しない。それがあるのは石見国邑智郡内(現在は江津市桜江町大貫)である。江川中流域でその二km上流には甘南備寺があり、10km上流が源範頼下文の中で兼栄・兼高父子の所領として記された河本(川本)である。大貫とその周辺は土地には恵まれないが、江川の水運をその経済的基盤としていた。これは石見国の特徴でもあり、出雲国に対して耕地面積は半分程度であるが、江戸中期までは出雲国に匹敵する人口を有していた(現在は出雲部の4割弱)。
 大貫の地が注目されたのは近年、大貫村の庄屋を務めてきた中村家文書が公開されたことによる。当初は県内の被差別身分に関係する史料が残っているとのことと、中村久左衛門氏(当主は代々この名を継承)からの調査依頼を受けて予備調査を行った。一緒に調査を行った松原高広氏と中村氏が旧知の間柄であったことによる。次いで、県立図書館と古代歴史博物館の関係者の協力を得て文書目録を作成した。これによりその情報が伝わり、石見銀山に関わる史料や初期の検地帳が残っていることから、東大史料編纂所が調査を行い、その成果は久留島典子氏を中心とする報告書の中でも述べられた。
 中世の大貫は摂関家領大家庄に属していた。石見国でも江川東岸の地は出雲国との関係が密であった。その意味で、大貫三郎が出雲国押領使清滝氏の一族である可能性は十分にある。そして、治承・寿永の乱でいち早く源氏方となり兼栄・兼高父子は御神本氏惣領の地位と河本郷を含むその広大な一族領を手にした。そうした状況で兼栄の娘が大貫三郎と結婚するという記述は十分理解できる。
 以上、話がやや拡散した感はあるが、「石州益田家系図 柿本朝臣」の季兼から兼高に至る七代の部分には一定程度の信頼性があるとみてよかろう。 

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