koewokiku(HPへ)

« 石見国司と御神本氏1 | トップページ | 石見国司と御神本氏3 »

2018年6月 6日 (水)

石見国司と御神本氏2

 宗季の嫡子と思われる国季の名が、久安二年~仁平三年まで二期八年石見守であった源国保(実権は父雅国が持つ)から与えられた「国」と父の名を継承した「季」からなっていることはもやは言うまでもなかろう。その他の三人も国兼・国頼・国宗といずれも「国」を付けている。末子の国宗は父から「宗」を与えられた可能性が強く、嫡子国季に次ぐ位置にあった可能性もある。仁平四年(一一五四)正月に石見国守は源季兼に交替し、藤原忠通が石見国知行国主の座に復帰した。そして保元元年七月に保元の乱が起こり、崇徳上皇・藤原頼長は失脚した。頼長の父忠実は処罰は免れたが影響力は低下した。
 保元元年(1156)に比定できる十一月九日書状(兵範記紙背文書)の中で「修理権大夫雅国」は尾張国小弓開発御庄預所として、現地の庄官の訴えを摂関家家司平信範に伝え、問題解決のための摂関家政所下文の発給を求めているが、一方で自身は「籠居」していると記す。保元の乱の四ヶ月後であり、乱で頼長が死亡し、忠実の発言権が低下したことの影響であろう。子国保は石見守から源季兼と交替する形で対馬守に遷任したが、その地位を失った可能性が大きい。
 乱の影響は宗季の四人の子にも影響し、それまでは庶子であった人物が石見国守源季兼のもとで新たな惣領となり、その名を「国兼」とした可能性が大きい。元の名は不明であるが、国兼の子孫はいずれも「兼」をその名に付けていく。源季兼の娘は藤原(日野)兼長との間に嫡子兼光を産み、季兼が能登国で立券した摂関家領若山庄領家は日野家が継承していく。季兼の子季広の系統は国守となる一方で九条家家臣として続いていく。季長も同様だが、その子兼親と兼時は祖父季兼の「兼」をその名に付けている。

 

« 石見国司と御神本氏1 | トップページ | 石見国司と御神本氏3 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 石見国司と御神本氏2:

« 石見国司と御神本氏1 | トップページ | 石見国司と御神本氏3 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ