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2018年6月19日 (火)

隠岐守資憲のまぼろし

 大変ショックなのだが、『平安遺文』の誤植ないしは誤読に直面した。それは保延四年(一一三八)五月二〇日鳥羽院庁下文(早稲田大学所蔵文書)の署判者「勘解由次官□□守藤原朝臣(花押)である。ネット上に画像が公開されており、「□□」の二字については若干迷ったが、拡大して確認して「信濃」と読んだ。『平安遺文』にも五〇〇一号として収録されているので確認すると「隠岐」と読んであった。そういえば、この文書が「隠岐守藤原資憲」の根拠であったな(この時期の勘解由次官としては藤原親隆と藤原資憲がいるが、親隆は兼信濃守)と思ったがやはり「隠岐」よりは「信濃」の可能性が高いとしか思えないので、同年一一月一六日の院庁下文(同蔵、『平安遺文』五〇〇四)の署判者「勘解由次官信濃守藤原朝□」と比較して確認したが、やはり「信濃」である。

 ということで隠岐守藤原資憲を証明する確実な史料は失われてしまったのである。併せて資憲が鳥羽院の近臣であったとの根拠も失われた。一方、この時期に資憲が隠岐守であったとの説は極めて魅力的である。父実光が長承三年から保延五年はじめにかけて大宰大弐、さらには大宰権帥を務めており、両者は密接に関係すると思われたからである(内蔵忠光とその子の資忠)。しかし「ないものねだり」をしてもしょうがないので、以下では新たな題名のもと、天養二年に下野前司資憲の寄進により出雲国揖屋社が立券された背景について再検討する。
修正:康治元年一二月一三日(高野山文書)と天養元年九月二二日(円覚寺文書)鳥羽院庁下文の署判者として「勘解由次官兼下野守藤原朝臣」として資憲がみえており、鳥羽院の近臣でもあったことは確認できる。

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