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2018年6月

2018年6月30日 (土)

揖屋社の領家3

 承安二年(一一七二)九月一六日領家某書下には奥上判に花押が押されているが、具体的人名に比定はできない。親である助字(安ヵ)の譲りに任せて「三位」大宅助澄を別火職に補任している。「三位」を含めて表現に問題があるが、一定の事実に基づき後に作成されたものと思われる。親子とも「助」の字を使用しているのは揖屋社を寄進した領家藤原資憲によると思われる。 これに対して建久一〇年に政所下文で補任されたのは宗澄と「助」の字を使用していない。資憲のの没年は不明だが、弟資長は建久六年に七七才で死亡している。
 因幡国の長田氏がやはり「資」の字をその名に付けていることは前述の通りである。久寿元年(一一五四)から応保元年まで因幡守であった藤原信隆の父信輔も康治元年(一一四二)から久安六年(一一五〇)にかけて因幡守であったが、その室は保延元年五月日待賢門院庁下文の署判者としてみえる藤原通基の娘である。その姉妹は待賢門院の兄弟である三条実行の孫実綱と、西園寺通季の子実宗と婚姻関係を結んでいる。信輔と信隆の任期の間には藤原顕盛(顕遠)の子盛隆と盛方が因幡守としてみえるが、顕遠もまた保延元年五月日待賢門院庁下文の署判者としてみえる。
  出雲守については平治元年に平基親が伯耆守に遷任してしばらくは史料を欠くが、朝方の養子となった朝時は少なくとも一期四年の任期は務めたと思われる。朝方は朝隆と朝隆の異母兄で待賢門院と緊密な関係を有した顕能の娘との間に生まれている。承安四年には後白河院の側近藤原能盛が出雲守となったが、三年後に周防守に遷任すると、再び藤原朝方・朝定父子が知行国主と出雲守に返り咲いた。国守は交替したが、知行国主は建久末年までは朝方であった。
 以上、保元の乱により崇徳上皇は讃岐国に配流されたが、側近であった資憲は隠退しつつも、平教盛との婚姻関係を背景に影響力を維持し、出雲国と因幡国では待賢門院との深い関係を持つ人物が知行国主や国守となっていた。

揖屋社の領家2

 よって、この時期の但馬守に関する明証はないが、久安二年一二月二九日に出雲守藤原光隆と入れ替わって遷任した藤原経隆が、光隆と同様に重任して但馬守を二期八年務めた可能性が高い。康治三年正月の下文の署判者は但馬守で、経隆に比定できる。経隆の父基隆は大治三一二月年の待賢門院庁牒の、兄忠隆は保延元年五月の庁下文の署判者としてみえている。出雲守藤原光隆については、その父清隆が待賢門院庁の別当で、保延元年五月の庁下文の署判者としてみえている。
  以前述べた点を修正・補充したが、以下では藤原資憲以降の領家について述べる。その判断材料となるのは、建久一〇年四月日某家政所下文である。当時の領家が三位以上の公卿であったことがわかるが、資憲の子孫中、男系にはこの時点で公卿となった人物は確認できない。これに対して、女系では資憲の娘と平教盛との間に生まれた教子ならびに、その夫藤原範季が三位となっている。教子については日時が不明だが、範季との間に生まれた重子が建久八年九月に鳥羽天皇の第二皇子(順徳天皇)を産むと、範季が一二月には従三位に叙されており、教子も同じ時期であろう。
 ということで、揖屋庄領家は女系である教子ないしはその夫である範季に受け継がれていた可能性が高い。そして重子の同母弟範茂は甥である順徳天皇の近臣として、承久二年には参議に補任されて公卿となったが、承久の乱への関わりが深かったため、乱後、処刑された。揖屋社の管理にあたっていた武士も京方となり、その没収された跡に東国御家人安東氏が地頭に補任された。ちなみに建久一〇年の政所下文に別当としてみえる「散位皇后宮大属大江朝臣」は養和元年から文治四年にかけての後白河院庁下文に「主典代織部正兼皇后宮大属大江朝臣」と署判している大江景宗であろう。

揖屋社の領家1

 揖屋庄は天養二年(一一四五、七月二二日にハレー彗星出現により久安に改元、寄進月日不明)に藤原資憲が崇徳天皇の御願寺成勝寺に寄進したことにより成立した。成勝寺は保延五年(一一三九)創建であるが、最も早い時期に立券・成立した三つの庄園の一つである。同年二月六日には但馬国浅間寺が上座法橋増仁により寄進され、八月一八日には藤原顕頼により丹波国福貴御園が寄進されている。
  この年は八月二二日に母待賢門院が死亡している。近年の研究では、待賢門院領(庁分・法金剛領・円勝寺領等)は、娘上西門院が継承したのではなく、長子である崇徳上皇が管理したとされている。それに加えて独自の崇徳院領として成勝寺領の形成が開始された。その背景としては、保延五年(一一三九)五月一八日に異母弟体仁親王の誕生し、すぐに立太子され、永治元年一二月には崇徳が退位し、近衛天皇として即位したことがあろう。 崇徳にも保延六年九月二日には重仁親王が誕生していたが、鳥羽院政の後継者が誰になるかは不透明であった。
 寄進時の国司について述べたが、丹波国については康治二年五月の藤原為忠と天養元年一二月の藤原惟方の記事は「国司一覧」の備考にあるように事実ではなく、この時期の国守」は康治元年一〇月現任の藤原公信が引き続きその任にあった可能性が高い。公信は保延元年から三年にかけては待賢門院庁下文の署判者としてみえ、その子実清は保元の乱では崇徳方となっている。
 但馬国については康治元年一二月から久安二年七月までの鳥羽院庁下文ないしは牒の署判者として「但馬守」がみえることが「国司一覧」に記されているが、康治元年一二月は写しか残っておらず、影写本で確認すると一本には「右馬守」とありもう一本には「右馬頭」とあり『大日本古文書』は前者に基づき「但馬守」の誤りヵとしたが、この前後の下文の署判者をみると後者が正しく、藤原長輔である。

2018年6月28日 (木)

院司と摂関家家司

 久安四年(一一四八)一〇月二五・二六日に藤原忠実が白河殿以下を訪れた際の記録が残っている。(仙洞御移徙部類記)その前後の二四日には鳥羽法皇が、二七日には法皇と崇徳上皇も白河殿と法勝寺を訪れ、関係する公卿と殿上人が参集したとする。ただしその具体的人名は不明であるが、これに対して忠実の訪問については家司の平信範が詳細に記録している(『兵範記』そのものの当該時期のものは残っていないが、仙洞御移徙部類記に関係部分が収録され残った)。
  二五日の渡御に参集した院司(殿上人)は藤原家長・顕親・朝隆・雅国・信範であり、院司と忠実の家司を兼ねていた人物である。仁平二年三月のメンバーと共通するが、資憲のみみえない。二六日にはより詳細な記録が残されており、公卿として子である内大臣頼長と権中納言藤原季成・宰相中将花山院忠雅・参議藤原経定・参議藤原教長が騎馬で前駆し、後を固めたのが検非違使源為義であった。殿上人で具体的名前が記されているのは院司美作守藤原家長・右京権大夫藤原顕親と院の判官代平信範と高階重範である。白河殿での饗宴には公卿として前述以外に、権大納言左大将源雅定・権大納言藤原宗輔・権中納言皇太后宮大夫宗能・権中納言左衛門督公教・権中納言左兵衛督重通・参議藤原清隆・修理大夫忠能・大蔵卿藤原忠隆、殿上人では左近衛中将源成雅・女院蔵人実重・侍従源師盛・同某□家・源師国(師盛の兄弟)がみえる。
 忠実は白河法皇が死亡した大治四年(一一二九)には五二才で政界に復帰し、崇徳天皇から内覧の宣旨を得ていた。公卿の供奉者には藤原忠雅・宗輔・宗能・教長といった忠実・頼長父子と密接な関係を有する人物もみえるが、実質的には子である忠通を抑えて公卿のトップである忠実の地位を反映したものであった。これに対して殿上人の供奉者はいずれも忠実並びに摂関家との密接な関係を有する人物であった。院司としての立場と摂関家家司は排他的ではなく共存可能なものであった。
 この作業をする中で関係者の生年を再確認したが、久安四年の時点で鳥羽院四六才、崇徳院三〇才、忠実七一才、忠通五二才、頼長二九才、美福門院三二才、近衛一〇才、重仁九才であった。故人であるが白河と待賢門院の年齢差は四八もあり、後者が崇徳を産んだ時点で前者は六五才を越えており、それこそ現代医学の力を借りなければ、両者の間の子は存在しえないことを痛感した。

 

2018年6月27日 (水)

W杯予選通過は?

 アルゼンチンの例のように先が読めないのがサッカー。点が入りにくいことがその原因である。日本代表も最悪のケースとしてポーランドに敗北することがありうる。コロンビアが勝利した場合は、セネガルとの得失点差、次いで警告の比較となる。二戦目までは日本が三、セネガルが五である。引き分けの場合は、コロンビアとの対戦で勝利しており、二位通過。セネガルが勝利した場合も二位通過である。日本がポーランドに勝利した場合は、警告数の少なさで一位通過となる可能性が高い。以上のように、日本は多くの反則を犯した上でポーランドに点差をつけられて敗北した場合には予選リーグ敗退となるが、何が起こるかわからないのがW杯(これを書いた時点でドイツの予選敗退は予期していなかった)。苦戦を余儀なくされれば反則も増えるであろう。
 これまでの二試合で日本代表はよい内容であるが、ガーナ戦までのメンバーとパラグアイ戦のメンバーで個々の力にはそれほど差はないのだろうが、チームとしては組み合わせの妙で大きな違いがあり、当初のメンバーからの交代を決断したのだろう。監督が今のチームを育てたのではなく、最後にひと味を加えたら劇的な変化が起こったのである。
 日本代表の試合をそれほどみていない素人の意見にすぎないが、やはりスタートメンバーは運動量を最優先で選んだ方が良いであろう。長友・香川、そして怪我からの回復次第であるが、岡崎も運動量が豊富で、質も高い。レベルの高い試合を多く経験しているからであろう。これに対して、本田は積極的に動こうとしているが、やはり絶対的な運動量は十分ではなく、これまでの試合と同様、後半途中からの起用が妥当で、その場合に限り得点能力が高いといえよう。
 アルゼンチンのメッシ選手が、代表ではバルセロナほど活躍ができないと言われる。それはポーランド代表のレワンドフスキ-選手についても同様であろうか。調べてみると欧州予選ではチームの全得点二八の半分である一四点をたたき出している。チームは一〇試合で八勝一敗一分であるが、一敗は予選二位のデンマークに〇-四(もう一試合は三-二)、一分は予選最下位であったカザフスタン(三分七敗)に二-二(もう一試合は三-〇)である。カザフスタンは六得点に二六失点のチームである。以上のように、代表での活躍は十分だが、チームにムラがあるのは確かで、それがよりレベルの高い本戦で出ているのであろうか。本来の実力を発揮した場合は、日本代表が勝利を収めるのが大変な相手であることは確認できた。
 日本代表は平均年齢の高さが指摘されるが、今のところ悪い結果とはなっていない。問題は次回大会を含めた大会後の強化であろう。最近は海外のレベルの高い場でレギュラーとして活躍している選手は少ない。大迫、乾選手もそこまではいっていないし、四年後は三二才と三四才である。今回の西野氏に委ねれば大丈夫という状況ではなかろう。今回は試してみたら意外によい味が出たとのことで、今後の強化のヒントにはなるが、やはり個々のレベルが必要である。その意味でも、海外での活躍とともに、レベルの高い選手が日本国籍を取得するような環境作りも必要であろう。

2018年6月26日 (火)

長野庄と保元の乱4

 梅宮社務と宇多庄務の問題を混同して述べていたので、整理・訂正する。
 頼長が五月一八日に密かに鳥羽院のもとへ梅宮社の正・権預と宇多庄務人並びに学官院の造営について申し入れを行った。
 正・権預については六年が経ったが任期切れであるかを聞いた。鳥羽院を通じて仲遠が正預への補任を求めた申状が届けられていたが、是定(頼長)が補任すべきものだとして、一九日には頼長が返上している。
 二〇日に後鳥羽から伝えられたのは、仲遠の申文については留め置いて、仲遠と基仲の中から預を補任すべしとの回答であった。宇多庄務についても紀以長(橘氏惣領)は経済力があるが、故待賢門院の崩御の際に兼仲を補任しており、兼仲の弟である基仲を補任するのが故院の本意に適うとしている。基仲は橘氏の大学別曹である学官(学館)院を再興することを了解しており、頼長も基仲を召して宇多庄務を執行することと、学官院の再興を命じた。
 二七日には鳥羽の意向が伝えられ、基仲が庄務を命じられたので、梅宮正預には仲遠を補任すべきとことであった。次いで二八日にも意向が届けられ、仲遠を正預に補任せよとしたのは基仲が正への転任を望まないためであったが、やはり基仲を正預として仲遠を権預に補任すべきというもので、頼長は自分の意見も同じだが、現在の基仲は親族の死による服解中であり、喪が明けるのをまって基仲を正預に転じさせ、権預に仲遠を補任するとしている。
 まとめると、卜部兼仲は久安元年に待賢門院が死亡した際に、その意向により宇多庄務に補任されていた。今回は梅宮社の正権預の任期が空けたので誰を後任とするかが問題となったが、仲兼の子仲遠は鳥羽院を通じて補任を求める申状(請文)を提出していた。これに対して最終的な補任権を有する頼長が、補任権は自分にあるとして、兼仲の弟基仲に宇多庄務を任せ、正権預についても、喪があけるのをまって基仲を正預に補任し、仲遠を権預に補任した。

2018年6月25日 (月)

藤原資憲関係史料3

 (10)俊盛は美福門院の兄弟顕盛の子で、院分国である越前国守であった。母方の祖父敦兼は堀河天皇乳母を母とし、自らは待賢門院別当を務めた。敦兼の子季兼と季行は太治元年から保延四年にかけて能登守を務めているが、待賢門院の分国であった可能性が高い。
次いで待賢門院の死後は娘上西門院の分国となり、持明院通重・基家兄弟が国守を務めたことは前述の通りである。
 (12)信隆は備前守であるが、「国司一覧」では「信経」としている。「信隆」との読みは史料編纂所の「古記録データベース」の解読に基づくものだが、「大日本史料データベース」で検索すると、手書きの同文書が表示され、そこでは「信経」と読んでいる。ただし藤原信経は天養元年(一一四四)正月二四日に伊賀守に補任され、仁平二年正月二六日に備前守に遷任しており該当しない。
 五味文彦氏は久安三年一〇月日備前(『平安遺文』二六三二は紀伊国とするが誤り)国司庁宣案を根拠に天養元年正月から仁平二年正月まで、備前国は知行国主藤原忠通のもとで源信時が国守であったとされるが、当該文書には「大介源朝臣」が署判を加えている。天養元年正月までは忠通のもとで源国範が国守であったとされるが、この関係者であろうか。国範は村上源氏師房の孫国信の子で、その兄弟に「信時」がおり、久安四年一〇月時点の備前守は源信時とすべきである。国範の後任が信時であった。ちなみに忠実の側近であった雅国も兄弟である。ということで、「信隆」は「信時」の誤りであった。信時は藤原信経と交替する形で備前守から伊賀守に遷任した。ともに忠通の知行国であった。
 (13)重範は出雲守を務めた高階重仲の子で、泰重の兄弟である。天治二年五月二四日に鳥羽院の第三皇子君仁が誕生したことで、二六日には御湯殿始が行われたが、そこに兄弟である泰盛とともに六位の殿上人(六位蔵人ヵ)として「高重範 重仲男 同(進士)」がみえる(御産部類記)。久安四年一〇月二六日には信範とともに「判官代」としてみえる(仙洞御移徙部類記)。鳥羽院庁の役人であったが、高階氏系図には泰盛のみで重範はみえない。

 (14)~(17)は左右衛門府の関係者だが、(15)は義家の孫為義で、天仁二年(一一〇九)には義家の嫡子であった叔父義忠を殺害した義綱(義家弟)を捕縛したことで、左衛門尉に補任されている。
 以上のように高陽院の白河殿を訪問する際の準備にあたっているのは、鳥羽院庁の関係者であり、国守については院分国(鳥羽院・待賢門院・崇徳院)ないしは関白忠通の知行国の関係者であった。院ないしは摂関家との関係は排他的ではなく、両立するものであった。

2018年6月23日 (土)

藤原資憲関係史料2

 (2)家長は家保の子で、鳥羽院庁と崇徳院庁の両方に関わり、保元の乱では崇徳方となったとされる。鳥羽の寵臣となった家成より年長であったと思われる。(3)顕親は村上源氏源師房の曾孫雅俊の子でこの後には院近臣の指定席である播磨守となっている。伯母である師子は関白藤原忠通を産んでいる。前任の播磨守であった平忠盛が仁平元年(一一五一)に子教盛を淡路守とするために辞したことをうけて播磨国は忠通の知行国となり、忠通の家司であった顕親が国守に補任された。(4)の成雅は師房の曾孫信雅の子で顕親の従兄弟となるが、忠通の弟頼長との男色関係でも知られた人物である。五味文彦氏によれば知行国主忠実(忠通・頼長の父)のもとで尾張国・近江守・安芸守を務めている。
(6)雅国も師房の曾孫国信の子で前二人の従兄弟であり、知行国主忠実のもとで安芸守を務め、その子国保が忠実のもとで石見守と対馬守になっている。
 (5)朝隆は勧修寺流藤原為房の子で、顕隆の弟であるが母親が違い年が離れていたこともあって顕隆の娘を室としている。この時点では子朝方を国守として淡路国知行国主でもあった。摂関家司であるとともに、鳥羽院の近臣でもあった。後には同母兄親隆とともに美福門院庁の別当となる。『兵範記』の筆者(7)藤原信範は有名な忠実・忠通父子の家司であるが、その一方で鳥羽院庁の判官を務め、その子八条院庁にも関わっていく。
 (8)通重は持明院通基の子で、久安三年末までは待賢門院とその娘上西門院の分国であった能登国守であった。通重の母は待賢門院女官で上西門院乳母となっているが、本人は待賢門院に仕える役人であった。久安四年に上西門院因幡を妻とする同母弟基家(11)に能登守を交替して、自らは丹波守に遷任していた。丹波国もこの時点では上西門院の分国であった可能性が高い。徳大寺公能の娘を妻とし、久安三年には一条能保(源頼朝の同母姉妹坊門姫を妻とする)が生まれたが、通重は同五年に死亡している。
 問題となるのが(9)光隆であり、懸案の杵築大社遷宮の終了をうけて久安二年一二月に出雲守から但馬守に遷任していた。出雲守の後任は二度目の就任となった藤原経隆で、白河・鳥羽両院の近臣であった基隆の子で、忠隆の弟であった。基隆・忠隆父子もまた待賢門院庁の役人であった。経隆も康治三年(一一四三)正月以降は鳥羽院庁下文の署判者としてみえている。問題は久安四年一〇月の「光隆」で、この扱いに迷って作業が停止してしまった。短期的に光隆が出雲守に復帰したと解釈することも物理的には可能だが、光隆と経隆がそれぞれ但馬守と出雲守を重任していることからすると、「光隆」は「経隆」の誤記とすべきとの結論に達した。これに二日間要した.

藤原資憲関係史料1

 佐伯智広氏の論文の中で、資憲に関するものとして、『兵範記』仁平二年(一一五二)三月一六日条があげられていた。この日、藤原忠通が崇徳院を訪問しているが、その際に別当資憲を以て奏聞したとしている。崇徳院庁に関する史料はほとんど知られていないが、資憲が別当の一人であったことがわかる。資憲の父実光は六四才で参議となっているが、白河・鳥羽両院の院庁下文の署判者としてはみえない。一方で大治三年(一一二八)一二月日待賢門院牒の署判者としてみえる「大学頭兼式部少輔藤原朝臣」は実光の弟資光に比定できるが、長承元年(一一三二)に五〇才で死亡している。実光の嫡子資長は母親の違う資憲より年少であったと思われるが、資長も永暦二年(一一六一)正月日後白河院庁下文までは署判者には登場しない。
  資憲は康治元年(一一四二)一二月一三日と天養元年(一一四四)九月二九日の鳥羽院庁下文で署判者(勘解由次官兼下野守藤原朝臣)としてみえていたが、「仙洞御移徙部類記」久安四年(一一四八)一〇月四日条には、鳥羽院の殿上人が高陽院が白河殿を訪れる際の打ち合わせを行った記事が掲載されているが、そこにも資憲(1)がみえている。すなわち藤原家長(2)、源顕親(3)、源成雅(4)、藤原朝隆(5)、源雅国(6)、藤原信範(7)とともに「殿上御装束」を担当している。また、御簾についても単独で担当している。この時点では国守ではないが、揖屋庄の領家であった。そして杵築社領の領家であった可能性も高い。(7)は『兵範記』の筆者で、この記録はその抜粋であろうが、『兵範記』の当該部分は残っていない。
 「饗」の負担者としては「殿上 (藤原)通重<丹波>」(8)、「女房衝重 (藤原)光隆<出雲>(9)、(藤原)俊盛<越前>(10)」、「侍所 (藤原)基家<能登>(11)」、「庁 (藤原)信隆<備前>(12)」、「行事 (藤原)朝隆<右中弁>(5)」がみえ、「屯食」の負担者として「行事 (高階)重範(14)」、「掌燈」の負担者として「行事 (藤原)雅国」(6)、「所々雑器棚厨子等」の負担者として「行事 (藤原)顕親」(3)、「掃除」の負担者として「行事 (源)近康(右衛門)大夫尉」(14)「(源)為義尉」(15)「義仲志」(16)「(清原)季兼(右衛門)府生」(18)がみえる。

2018年6月19日 (火)

隠岐守資憲のまぼろし

 大変ショックなのだが、『平安遺文』の誤植ないしは誤読に直面した。それは保延四年(一一三八)五月二〇日鳥羽院庁下文(早稲田大学所蔵文書)の署判者「勘解由次官□□守藤原朝臣(花押)である。ネット上に画像が公開されており、「□□」の二字については若干迷ったが、拡大して確認して「信濃」と読んだ。『平安遺文』にも五〇〇一号として収録されているので確認すると「隠岐」と読んであった。そういえば、この文書が「隠岐守藤原資憲」の根拠であったな(この時期の勘解由次官としては藤原親隆と藤原資憲がいるが、親隆は兼信濃守)と思ったがやはり「隠岐」よりは「信濃」の可能性が高いとしか思えないので、同年一一月一六日の院庁下文(同蔵、『平安遺文』五〇〇四)の署判者「勘解由次官信濃守藤原朝□」と比較して確認したが、やはり「信濃」である。

 ということで隠岐守藤原資憲を証明する確実な史料は失われてしまったのである。併せて資憲が鳥羽院の近臣であったとの根拠も失われた。一方、この時期に資憲が隠岐守であったとの説は極めて魅力的である。父実光が長承三年から保延五年はじめにかけて大宰大弐、さらには大宰権帥を務めており、両者は密接に関係すると思われたからである(内蔵忠光とその子の資忠)。しかし「ないものねだり」をしてもしょうがないので、以下では新たな題名のもと、天養二年に下野前司資憲の寄進により出雲国揖屋社が立券された背景について再検討する。
修正:康治元年一二月一三日(高野山文書)と天養元年九月二二日(円覚寺文書)鳥羽院庁下文の署判者として「勘解由次官兼下野守藤原朝臣」として資憲がみえており、鳥羽院の近臣でもあったことは確認できる。

2018年6月17日 (日)

藤原朝方と能盛

 『玉葉』承安二年(一一七二)閏一二月七日条には、今夜小除目があるが、院の寵臣である近江守藤原実教を熟国に転じさせるためのものだと記され、その候補として花山院忠雅の知行国である信濃国と藤原朝方が知行国主であった出雲国等から選ばれるようだと記されている。実教は鳥羽院のもとで多くの知行国を与えられた藤原家成の晩年の子として久安三年(一一五〇)に生まれたが、父は仁平四年(一一五四)には四八才で死亡している。
 家教は一九才であった仁安三年(一一六八)に近江守に補任され、一二月承安二年当時二三才で、結果的には信濃守に遷任した。近江・信濃両国の知行国主は誰であろうか。「国司一覧」(『日本史総覧』と「知行国主・国司一覧」(『中世史ハンドブック』)には特に指摘されていないが、寵臣との記述からは後白河院の分国であった可能性が高い。ただし、『公卿補任』の実教の経歴をみても近江・信濃両国とも「院分」との記載は無い。そして信濃国は引き続き忠雅が知行国主で実教が国守であるとの解釈がなされている(『同』)が、両者の間には実教の姉妹が忠雅室という関係がある程度である。それまでの国守は忠雅の子隆雅で、その母は藤原家長(家成の兄)の娘であった。
  ともあれ、出雲国は依然として藤原朝方の知行国であったが、承安四年正月二一日の除目で大夫尉であった藤原能成(盛)が国守となり、朝方は「出雲被推替石見了」(玉葉)という形で、今回は子である国守朝定とともに石見国に遷任した。信濃国のような事情は一切不明であるが、能盛が後白河の側近として知られた人物であり、少なくとも知行国主(ないしは院分国主)なしに国守の初任として出雲守に補任されたとは考えにくい。朝方・朝定父子にとっては不本意な石見国への遷任であり、能盛が三年半で治承元年六月二八日に出雲守から周防守に遷任すると、朝方・朝定父子が出雲国に復活している。周防守の前任者は院の側近藤原季能(美福門院の分国で国守を務めた俊盛の子)で、遷任先の讃岐国とともに後白河院の分国であった。
  復帰した朝方・朝定父子のもとで杵築大社の仮殿造営が行われ、次いで正殿造営が開始されたため、養和元年(一一八一)三月六日に父子は重任して造営を続けたが、寿永二年閏一〇月二六日に朝定が死亡し、弟朝経が国守となり造営を完了して遷宮を行った。遷宮終了後も父子で知行国主と国守を留任していたが、建久八年一二月に朝経が死亡したため、一時期、朝経が務めていた出雲守と蔵人を藤原清長が代行したことについてはすでに述べた通りである

2018年6月16日 (土)

連阿・兼直・是阿3

 これが兼季の死と所領の配分により三隅・福屋・周布氏が独立した後の惣領兼時の時点では、益田郷とは別に東山道郷と北山道郷がみえる。開発の進展を踏まえて独立したと思われるが、前述のように山道郷から両郷が分かれたのではなく、両郷の領域は離れている。東山道郷は益田本郷から独立し、北山道郷は弥冨名から独立したと考えられる。そして兼長まで両郷は益田氏惣領がともに支配していたが、兼長の死にともなう所領配分により、東山道郷は惣領兼久に配分されたのに対して、北山道郷は弥冨名とともに兼長の後家阿忍領となった。
 北山道郷内宇地村は阿忍から孫である是阿に譲られた。同様に阿忍は北山道郷内大草、遠田を兼胤の子兼利(大草氏)と兼種(遠田氏)に分割して譲った。阿忍が道忍に譲った伊甘郷は悔返されたが、阿忍が置文を作成した正和五年二月には道忍の嫡子兼世と庶子兼方等の曾孫にも譲ったと思われる。これに対して東山道郷内波田村は惣領兼胤からその子兼国に譲られた。道忍が兼胤から譲られたのは東山道郷惣領地頭職であった。元亨二年に是阿領宇地村について益田氏惣領道忍が去渡状を発給したのは宇地村をめぐる対立があったからであろう。正応二年に阿忍が是阿に宇地村を譲ったと思われる。建武二年に道忍の後継者兼世が是阿の申請に任せて粉失状を発給しているのは益田氏惣領としての立場からであった。周布兼信が嫡子兼宗に周布郷惣領地頭職を譲った際にも、幕府から惣領道忍に対して文書や対立者の確認がなされている。
 丸毛氏に関する所領として丸毛別符、宇地村、安富郷があるが、その伝来の経緯はそれぞれ異なっていた。丸毛別符は兼忠以来の丸毛氏領であり(兼季→兼忠→兼信→兼直→兼幸)、宇地村は阿忍からの相伝(兼季→兼時→兼長→阿忍→是阿)、安富郷は幸寿から連阿を経由しての相伝であった(兼季→兼定→幸寿→連阿→兼幸)。是阿は兼胤の子で、兼幸の母であるが、宇地村は本来の相続者が是阿に先立ち死亡したため、孫兼里を養子として譲った。

連阿・兼直・是阿2

 「丸毛家畧系」では兼幸の母は波多(田)兼国の娘亀夜叉だと記され、父兼直は波多家領宇地を分与されたとするが、益田氏系図には兼胤の子兼国までしか記しておらず、兼国の姉妹が宇地村地頭であったと記す。波田氏の系図では兼国の子としては兼能のみを記し、宇地村地頭については建武五年二月一七日に尼是阿が孫である次郎三郎兼里を養子として譲っている。波田兼国は益田氏惣領兼弘(道忍)の弟であり、兼幸が兼国の孫であるとすると、兼弘の嫡子で益田氏惣領となった兼世との間に一世代のズレが生じてしまう。よって、宇地村地頭であったのは兼国の姉妹であり、この女性が是阿であり丸毛兼直の妻であったと考えられる。
久留島典子氏は以下の様に述べられた。
 原屋家文書にあるべき文書の一部が益田家文書に入っているということは、両者の関係の深さを示している。道忍避状が宇地村地頭職についても出されていることから、尼是阿も兼長後家尼阿忍から宇地村地頭職を譲られたのだと推測でき、兼見と同じ一族のものと考えられる。
 西田友広氏は山道郷を所領する兼久が兄兼長の死により益田本郷と益田氏惣領を得たし、兼久の子兼弘(道忍)が北山道郷内の宇地村を是阿に去渡していることから、道忍は山道郷を本拠としていたと考えられると述べられたが、益田本郷を得た兼久の子で益田氏惣領であった道忍がなぜ山道郷を本拠としたかについては述べられなかった。一方で、一旦は祖母阿忍から伊甘郷を譲られた道忍が祖母敵対により、伊甘郷を悔返えされたことに関連して、道忍が御神本氏一族の氏神である臼口(御神本)大明神を伊甘郷から東山道郷に遷したとされた。

 西田氏は山道郷、北山道郷、東山道郷との表記を使い分けているが、その正確な理解が必要である。なぜなら、北山道郷と東山道郷の間に益田本郷があり、両者の領域は連続していないのである。「益田家系図写」(山口県文書館蔵)は、その写された時期は新しいが、その記載内容には益田氏を考える重要な記載がいくつも含まれている。初代国兼と二代兼真の記載には信頼性に問題があるのに対して、三代兼栄から七代兼長に関する記載には信憑性が高い。その背景には、二代目と三代目の間には惣領の交替などの断絶があるためであろう。
 同系図によれば、惣領兼季段階の所領は、那賀郡阿部郷が欠落していることを除けば、建仁三年に兼季が幕府に安堵を申請したそのものであり、益田庄内益田郷(益田本郷)はみえても、山道郷はみえない。山道郷は益田本郷に含まれていたのである。文書そのものは失われ、南北朝期にその復元が行われたが、その際に系図の記載が利用されたと思われる。

連阿・兼直・是阿1

 正平一〇年(一三五五)三月一六日沙弥道元(丸毛彦三郎兼幸)譲状によると、兼幸は丸毛別符を父名宣(兼直)から譲られ、長野庄内安富郷を祖母連阿から譲られたとする。元弘三年(一三三三)九月一四日石見国宣により丸毛彦三郎兼幸が当知行安堵されたのは、長野庄内安富郷と丸毛別符内堀越村渋谷名であった。苗字の地である丸毛別符は一分地頭でしかないが、一方の安富郷は惣領地頭であった。
 丸毛氏は益田兼季の子兼忠が丸毛別符を譲られたことから始まるが、「丸毛家畧系」(萩博物館蔵周布氏系図所収)には兼忠の子として兼信と兼頼が記されている。兼頼は小笠原氏から益田兼長の養子となったが、兼長の死により弟兼久の養子になった。益田氏系図に兼久の子として兼頼がみえるのはそのためである。ところが、兼久の子兼胤の時期に益田氏領の大半が没収されてしまったため、兼頼は丸毛兼忠の養子となった。
 兼忠の実子兼信には嫡子兼氏と庶子兼直があり、兼氏領は兼親が継承した。兼幸は兼直の子としてその所領を譲られた。弟兼顕もおり、兼直領も分割されたと思われる。兼幸領が丸毛別符内堀越村渋谷名であったのはそのためであった。
 安富郷は益田兼季の遺領が配分された際に弟周布兼定領となり、兼定の死に際して継子(後室の連子)である幸寿に譲られた。この相続に惣領兼時とその母聖阿弥陀仏が介入し、兼定領のうち周布郷と安富郷を兼時の次子松房(兼久)に譲られようとしたが、後の裁判で、兼定の養子となった弟兼政と幸寿の相続が認められた。ただし、兼時領のうち長野庄内飯田郷と迩摩郡宅野別符を譲られた兼久と幸寿が結婚するという形で調整がなされた。次いで、兼時嫡子で益田氏惣領を継承していた兼長が後継男子がないまま死亡したため、弟兼久が益田氏惣領となり、兼長領の多くを相続した。
 周布氏系図では幸寿は自らの所領を次男彦三郎兼幸に譲り、別家として安富家を立てさせたとする。幸寿の「幸」にちなんで「兼幸」と名乗ったのは確かであるが、幸寿と兼幸には二ないしは三世代の差があり、且つ兼幸が祖母連阿から安富郷を譲られていることを勘案すると、幸寿から連阿を経由して兼幸が安富郷を譲られたと思われる。益田氏系図には兼久と幸寿の子としては三人の男子のみを記すが、女子として連阿がいたと思われる。周布氏系図によると幸寿は正和二年(一三一三)に死亡しているが、兼幸は益田氏惣領兼世と活動時期が重なっており、一四世紀初めには誕生していたと考えられる。これが周布系図が安富郷を譲られた兼幸を幸寿の子であるかのように記した理由であろう。

2018年6月13日 (水)

2つのW杯3

 スミスの後任としてクルセイダーズで結果を出したのが、現パナソニックHCのロビー・ディーンズで、当然第6回のHCの最有力候補であった。第6回の惨敗をうけて、今度こそディーンズと思われたが、NZ協会はヘンリーの再任を決めた。そのためディーンズはオーストラリア代表ワラビースのHCとなった。ただし期待されたほどの結果は残せずに、更迭後、パナソニックHCに就任。今年から神戸に加入する元オールブラックス代表スタンドオフダン・カーターはスミスとディーンズのもとで成長した。
  ということで、現在の日本には代表のジョセフHCをはじめ、世界的名指導者としての評価が確立した4名の指導者がいるという状況である。それでもW杯での8強入りは大変であるが、レベルアップの好機であることはまちがいない。サッカーと違い、他国での代表経験がなく、所属する国で3年以上の経顕があれば代表になれることと(W杯後には五年以上に変更される)、高校・大学から日本でプレーをして日本国籍を取得する選手が多いため、日本代表には多様な文化的背景を持つ選手が含まれている。
 実はここに今後の日本社会を活性化するヒントがあるのだが、そのためにも一日も早く、有能な首相を選出できるルール作りが必要である。また、参議院の合区解消などといったふざけた案が出されているが、衆議院を含めて見直せば容易であるのに、そこには手を付けないという怠慢振りである。衆議院は小選挙区から都道府県を単位とする大選挙区とし(人口比例なので定員には差が出る)、参議院は都道府県代表を選ぶ形にすれば良いのである。この場合は衆議院の優位についても見直しが必要となる。

2つのW杯2

  神戸の2015~16年シーズンのHCは南アで最優秀コーチを受賞経験のあるクッツェー氏であったが、南アの再建を託されたため辞任した。ところが南アの成績が低迷したため、今年3月に4年契約の途中で解任され、エラスムス新HCに替わり、代表選手も大幅に入れ替えられた。クッツェー氏はキャノンのHCとなったようである。
 初戦のウェールズ戦は20-22で落としたが、第二戦のイングランドには42-39で勝利した。イングランドはジョーンズ体制となってテストマッチ18連勝というNZの世界記録に並んだが、今年のシックスネーションズの第3戦から連敗中である。W杯に向けて引き締めるための意図的な連敗との声をあるが、残る南アとの2試合が注目される。今回のイングランド代表にはNZ代表選出が期待されたFL/No8シールズ選手27才が選ばれている。SRハリケーンズからプレミアシップワスプスに移籍し、祖父がイングランド出身であることで、代表に選出された。
  スミス氏は第4回W杯(1999)後、第5回大会へ向けてオールブラックスHCに就任したが、任期途中に更迭された。 クルセイダーズを率いて98年と99年にSRで優勝し、第4回大会で惨敗したチームの再建を託されたはずであったが、NZ協会は二年間の成績に不満があったことと、思い切った若返りを行うため、スミスを更迭し、イングランドでアシスタント・コーチの経験しかなく、NZに戻ってチーフスのHCに就任したばかりのジョン・ミッチェルを選んだ。スミスは前HCハートの時もスタッフに加わっていたからであろう。チームは大幅に若返り、北半球に遠征したチームはベィビーブラックスと揶揄された。それなりに若手が育ったが、W杯は準決勝で敗退した。
 スミスはヨーロッパのクラブチームのHCを経て、第6回大会に向けたヘンリ-HCの体制でACとして復帰し、バックスを担当した。第4回大会のHCが本来は第2回のHCとなるはずのハートであり、このハートが第4回HCとなったため、ウェールズ代表監督となったのがヘンリーであった。他国のHCに就任するとオールブラックスHCには選ばれないはずであったが、NZ協会はこの規定を改正してまで、第6回のHCにヘンリーを選んだが、またもや惨敗。

2つのW杯1

 サッカーW杯が間近に迫ったが、日本代表についてはメンバー構成が高齢化している点とともに、以前のチームに見られた日本国籍を取得して代表に選ばれた選手、それを含めてJリーグ得点王がみあたらない点が気になる。得点がとれない最大の原因だと思うがどうであろうか。海外組がいるとの声に対しては、実際に所属チームで得点を量産している選手もいない。パラグアイ戦(ただしこちらはガーナと同様にW杯に出場しないため、若手主体の新チームとなるであろう)もよくて引き分けだが、それも難しいか[実際には4-2で勝利]。
 一方、ラグビーは1年3ヶ月前となった。前監督の交代後、新体制に移行した。体制は素晴らしいが、HCはそれまでの仕事が一段落してからの就任となった。世界のラグビーと日本のラグビーを熟知している点では前任のジョーンズ監督以上ではあるが、それゆえに替わりがいないという問題点がある。
 サッカーも同様だがライバルも強化しており、その中で結果を出すのは大変困難である。サッカーのベスト16とラグビーのベスト8は後者がやや難度が高いが、サッカーのベスト8は遙かに壁が高く、韓国が一度でも越えたのが信じられないぐらいである。
  とは言え、具体的なグループ分けはすでに決まっており、ラグビー日本代表がベスト8に入るにはランキング2位のアイルランド、同6位のスコットランドのいずれかに勝利することが条件となる。1位のNZのみがポイント90点越え、2位~7位の南アフリカまでが80点代、11位の日本は76.2で、8位のフランスは79.10である。日本がイタリア(14位、70.73)の第2戦に続いて対戦するジョージアは74.75で12位である。IRB常連国が8位までを独占している状況は変わらず、次いでフィジー・アルゼンチン・日本の順である。ジョージアはとにかくFW、とりわけスクラムが強力であるが、最近ではヨーロッパのプロで活躍する選手が増えてチーム力がアップしている。 トップリーグ神戸製鋼は外国人HCが続いたが、それが故に出身国の事情で帰国することが相次いだが、今回、総監督としてNZを代表するウェイン・スミス氏が就任した。 トヨタには第6回W杯優勝監督ホワイトが昨年就任し、大卒一年目のルーキー姫野をキャプテンに指名し目に見える成果を出しつつあるが、これとともに注目される。

2018年6月11日 (月)

粟田宮社の社家

 元暦元年(一一八四)、後白河院は崇徳院の冥福を祈り怨念を鎮めるために、保元の乱の戦場であり、崇徳院の御所白河北殿の跡である春日河原に社殿を建立した。これが粟田宮社であるが、その俗別当を務めたのは卜部氏一族であった。吉田神道の祖とされるのは卜部兼延である。兼延は長保三年(一〇〇一)神祇大副となり、一条天皇から「兼」の一字を与えられ、その子孫に受け継がれていく。吉田社と平野社の社務に関わっていたが、その子兼忠はこれに加えて梅宮社にも関わりを持った。
 兼忠の子兼親は吉田社と梅宮社務を継承し、兼国が平野社を受け継いだ。次いで兼親の嫡子兼政が吉田社を、養子兼季が梅宮社を受け継いだ。兼季の孫が梅宮社務を掌握し、石見守に補任された兼仲である。その子孫も社務とともに北面として院に奉仕しつつ、国守を務めている。吉田社務を継承した兼政とその子孫も同様であった。これに対して、平野社務を掌握した兼国の子孫は、曾孫兼友が粟田宮俗別当に補任され、その嫡流兼衡以下が平野社務を相伝したのに対して、庶流の兼清以下は粟田宮社を継承した。
 延応元年(一二三九)九月三日某下文は、長野庄内黒谷郷に対して。関東下知状並びに六波羅施行状と社家政所御下文を守って、惣政所に付けてその沙汰を行うよう命じている。承久の乱の新恩地頭として黒谷郷に入部した菖蒲氏の所当の未進を粟田宮社が幕府に訴え、幕府が命令を出したのを受けて、粟田宮社から政所下文が出されたのを施行するものであった。奥上判の主は長野庄預所であろう。長野庄の成立に梅宮社務を司る卜部兼仲とその子孫が関わったことは西田氏の指摘する通りであるが、後白河院から寄進された粟田宮社の社務も卜部氏の関係者が執行していた。

2018年6月10日 (日)

一二世紀前半の隠岐国司

 この時期の隠岐国司についての史料は乏しいが、元永元年正月の除目で藤原実盛が国功により補任されている。右兵衞尉を経て承徳三年正月に左衛門尉に進み、白河院の北面を務めていた(康和三年五月一六日検非違使=殿暦)康和五年一月六日叙爵=本朝世紀)。元永二年正月の除目で河内守に遷任しているが、ここも一年未満で交替している(米谷氏:河内守とは別人)。保安二年には所領の開発を行っていた伊賀国の在庁官人から訴えられている(この左衛門大夫実盛は別人、久安元年閏一〇月三〇日に俄に出家)。次いで大治元年末には藤原資定が隠岐守に補任されている。資定は左近衛府の主典を務める一方で北面であり、元永二年八月一七日に内裏で舞楽があった際には舞を行っている。資定もまた武士であった。 
 これに対して大治五年正月の除目で隠岐守に補任された中原師遠は儒学者として明経博士となり、父師平以来の大外記を三〇年間にわたって務めた文士である。一方では摂関家政所(忠実・忠実)別当を務めたが、隠岐守補任の年の八月に六一才で死亡した。長禄元年一一月に隠岐守現任が確認できる大江行重は検非違使を務める一方で白河院庁の主典代であった。大治二年から四年にかけては河内守を務めている。その娘が儒者で石見守となった藤原永範の室となっている。保延元年六月二六日にはその後任で子と思われる大江遠兼が現任しているが、前年閏一二月三〇日に重任した大江某は遠兼であり、行重の隠岐守在任は短期間であったと思われる(遠兼への交替は誤りであった)。
  保延四年五月二〇日鳥羽院庁下文の署判者として隠岐守藤原朝臣がみえるが、藤原実光の子資憲である。康治元年末には下野守に現任しているが、短期間ではなく一定期間隠岐守に在任した後に下野守に遷任した可能性が大きい(後述のように隠岐守の根拠となる史料は誤りであった)。康治三年末に下野守を辞任しているが、それは出雲国揖屋社の寄進・立券を行うためであり、その後任は藤原宗長であったと思われる。この時期の隠岐国は待賢門院の、下野国は崇徳院(永治元年末に退位)の分国であった可能性が高い。次いで
久安三年閏六月から五年一一月にかけて藤原信盛の隠岐守現任が確認できるが、この時点では美福門院の分国であったことはすでに述べた。
 仁平二年二月に信盛が上野守に補任され、隠岐守には藤原家輔が補任されている。美福門院の分国が上野国となったことで、信盛が遷任した。これに対して家輔は家長の子である。保元物語では家長を崇德・頼長方とするが誤りである。久寿元年に現任している「宗輔」も家輔の誤りであり、(引き続き美福門院の分国としたのを訂正)、保元二年正月二四日には源雅範が隠岐守に補任されたが、この間のことは既に述べた。

一二世紀前半の石見国司2

 尹経自身は保安三年に四二才で死亡した父の跡を追う形で、大治三年には安芸守であったことが確認できる。次いで石見守に遷任したが、わずか九ヶ月で卜部兼仲と交替した。保延三年末まで八年半石見守を務めた兼仲は梅宮社務卜部兼季の孫で、白河院の北面の武士を務める一方で、待賢門院に対する成功により石見守の地位を得たと思われる。当時の石見国は待賢門院の分国ではなかったか。この仲兼が在任した八年間の間に後の長野庄につながる庄園の立券と寄進が行われた可能性がある。
 保延四年初に卜部仲兼は藤原宗長と入れ替わって和泉守に遷任しているが、宗長の父宗兼もまた和泉守を務めていた。その姉妹である女子は家保の室で家成の母であり、且つ待賢門院の子崇徳の乳母でもあった。宗長の姉妹である宗子は平忠盛の正室で、忠盛が待賢門院別当であったこともあり、崇徳の子重仁の乳母となった。このように宗長もまた待賢門院の関係者であり、和泉国も院分国であったと思われる。
 一二世紀前半は白河院・待賢門院の関係者が石見守であったが、天養二年(一一四四)初に大和国から知行国主藤原忠通と国守源清忠が石見国に遷任してきた。ところがわずか一年で忠通の父忠実に知行国主は交替し、国守には忠実の側近である源雅国の子国保が補任された。忠通は正室藤原宗子の間に生まれた子が早世し、妾室との間に生まれた二人は出家と、後継者たる男子に恵まれていなかったため、二三才年下の弟頼長を養子としていた。それが康治二年(一一四三)に基実が誕生したため、頼長との養子関係を事実上破棄し、頼長並びにこれを寵愛する父忠実との間に亀裂が広がっていく。そうした中での知行国主の奪取・交替であった。これに対して忠通は知行国であった豊後国の国守源季兼を久安六年(一一五〇)には対馬守に遷任させ、国保の二期八年が終了した仁平四年(一一五四)初めに、季兼を石見守として石見国を知行国として回復した。これにたいして忠実・国保は対馬国に転じたが、保元の乱(一一五六)により、忠実の知行国としての対馬国は失われた可能性が高い。石見国については保元二年に儒者で忠通の家司であった藤原南家の永範が忠通のもとで石見守を四年間務めたが、その一方で保延五年(一一三九)に文章博士となったことを契機に鳥羽院との関係を深め、次いで近衛天皇の死により即位した後白河天皇とその子二条天皇の御侍読を務めたことにより、長寛二年(一一六四)には大宰大弐に就任し、仁安三年(一一六八)には従三位公卿となった。

2018年6月 9日 (土)

一二世紀前半の石見国司1

 天養二年に石見国が藤原忠通の知行国となる以前の状況をまとめる。
 永久元年(一一一三)一〇月に謀反を鎮圧した功により検非違使藤原盛重が石見守に補任されている。その兄弟定仲もまた天仁二年(一一〇九)八月二四日に「石見前司定仲」とみえ、石見守経験者であった。定仲は藤原忠実の家司であり、摂関家との関係で石見守となったと思われる。ところが承徳三年(一〇九九)六月に関白藤原師通が三八才で死亡した時点で、後継者忠実は二二才にすぎず、続いて嘉承二年(一一〇七)七月には堀河天皇が二九才で早世したことにより、天仁元年正月の除目は幼少の孫である鳥羽天皇を後見する白河院の主導のもと行われた。
 盛重は定仲とは異なり白河院との関係で石見守に補任された。永久四年には東大寺大仏殿四面廻廊の修理を行うことで重任し、保安元年(一一二〇)一二月二四日に相模守に遷任するまで七年間務めた。元永二年(一一一九)九月二七日の鳥羽法皇の熊野御幸では、つき従う北面下臈として「備中守平正盛」とともに「石見守盛重」がみえている。まさに盛重は武士として平正盛の後を追う人物で、これを契機にその子孫も院北面とともに西国国司を務めていくことになる。
 盛重に続いて石見守に補任された藤原資盛は藤原南家資俊の子である。白河院の北面の武士として、その葬儀の参加者にもみえている。保安四年(一一二二)初から大治三年(一一二八)末まで六年間石見守を務めた。大治二年三月七日には法勝寺薬師堂で仏供養が行われたが、薬師堂の南面に安置された丈六の六字明王七体は資盛の功として造られたものであった。次いで大治四年初に同じ南家の藤原尹経と交替する形で安芸守に遷任した。資盛は崇徳院御厨子所預であったと系図に記されるが、蔵人所のもとで天皇の供御関係のことを弁ずる経済的ポストであった。このように資盛は北面の武士ではあるが、その本質は文士であったと思われる。

 資盛の後任尹経は信西入道の従兄弟で、その一族の中には父尹通のように検非違使に補任されたものもいるが、祖父季綱は大学頭、兄知通は東宮学士と、武士というよりも文士の家系であった。尹通は文章得業生から六位蔵人に進み、永久四年(一一一六)一〇月一三日勤学会所廻文には後の石見守藤原永範の父「文章博士」(永実)とともに「安芸守」としてみえている(朝野群載)。天永二年(一一一一)から永久五年にかけて安芸守に現任していたことが確認できるが、永久元年一二月と永久五年二月には白河法皇が尹通の鳥羽南第を方違のため訪れた記事が確認できるように、白河との間に密接な関係を有していた。

2018年6月 8日 (金)

対馬守藤原親光

 『吾妻鏡』については、大学三年時に史料編纂所1Fで行われていた五味文彦氏による読書会(勤務先のお茶の水大学の学生とともに行う。その中の一人が当時国史学科助手であった某氏と結婚)に参加した際に読んだ程度で、その他の部分はなお拾い読みに留まっている。
 親光についても初めて認識したという状況だが、隠岐守で成勝寺領揖屋社の領家であった藤原資憲の子である。資憲本人は保元の乱後出家したが、その子基光(弟資長の養子となる)と俊光は上西門院に仕え(頼朝とは旧知ヵ)、娘は平忠盛の子教盛との間に通盛・教経・教子等をなしていた。平家一門ではあるが、池禅尼の子頼盛と同様、一門では独自性を有していた。教盛と男子は平家の都落ちに同行したが、教子は都に残り高倉天皇の遺児の養育に当たっていたが、その遺児が即位したのが後鳥羽天皇であり、教子の娘重子が後鳥羽との間に生んだのが順徳天皇であった。
 『吾妻鏡』元暦二年三月一三日条には、頼朝の外戚である対馬守親光は対馬に在住していたが、その上洛を平氏方が妨げる恐れがあるとして、西海・山陽道諸国の御家人に対して路次の煩いなく勘過させるよう命じている。また西国に派遣された頼朝の弟範頼が迎えの船を遣わしたところ、三月四日に平氏の攻撃を逃れるために高麗へ渡ってしまったという。そこで対馬国守護人河内五郎義長から三月末に平氏は滅亡し、帰国を求める書状を送っている。
 その後、親光は帰国し、関東へ来て御家人となるとともに、一旦は失った対馬守に復帰しているが、問題は親光が頼朝の外戚だと記されていることである。源氏中興の祖とされる源義家の室が日野有綱(資憲の父方の祖父有信と母方の祖父有定の兄弟)の娘であることが確認できるが、残念ながら資憲の室については情報がなく不明である。親光は平教盛とも義兄弟となるが、教盛自身も清盛とは一線を画していた。また親光は屋島へ参陣せよとの平氏からの軍勢催促に応じていなかった。頼朝は親光の対馬守復帰とともに、熊野別当領上総国畔蒜庄の地頭に親光を補任している。

2018年6月 7日 (木)

待賢門院領の伝領3

 以下は一九九五年七月刊行の『島根県の地名』(平凡社)の「長野庄」の項文の一部である。
 建長八年九月二九日の崇徳院御影堂領目録(門葉記)に後白河法皇建立の粟田宮社領の一つとしてみえる。粟田宮が崇徳上皇の除霊のために建立された神社であるため、従来は益田庄や迩摩郡大家庄とともに崇徳皇后皇嘉門院の生家九条家が領家であったと考えられていたが、益田庄・大家庄と異なり九条家領であることを示す史料に欠け、建立者である後白河法皇が自らの所領を粟田宮に寄進したと考えることもできる。
 当初担当では無かったが、予定者で原稿を執筆しない方が出た影響で担当の見直しがされ、当方には長野庄と飯石郡が新たな分担として加わったため、執筆したものである。
 以上のように摂関家領ではなく院領であるとの説を提示したが、嘉元二年七月二七日某補任状によって混乱させられた。この文書は『鎌倉遺文』には発給者が幕府将軍久明親王だとされ、同じく掲載された同文の写しは北条時村下文だとされていた。これによりこの時点の長野庄が関東御領となっていると思い込まされたのである。
 ところが、二通は原本と写との違いはあるが同文であり、史料編纂所の各種データベースで「久明親王」「北条時村」で検索しても当該文書がヒットしないし、同文であるので同一文書の原本と写かと思い、史料編纂所久留島教授に問い合わせたところ、領家発給文書の原本と写であり、長野庄が関東御領であるとの説はあえなく崩壊した。一三世紀前半の長野庄文書の下文の花押も将軍頼経の花押に似ている部分があるが、同一とは言えないと悩んでいたが、領家の下文であった。
 問題はなぜ後白河院領であったのかという点であったが、崇徳・頼長方の所領として没収され後白河の後院領となったとしか考えられなかった。頼長領だとわかりやすいが没収された所領の中に長野庄はみえなかった。となると崇徳領か、と思ったが、どのようにして崇徳領になったのかというところでストップしてしまった。
 ここ最近は杵築大社領の成立について崇徳への寄進の可能性が大きくなったため、崇徳院領としては成勝寺領以外にないのか、崇徳院の分国はないかということを考えるため、一二世紀前半の国司・知行国主をエクセルにグラフの形式で入力した。併せて崇徳の母待賢門院の分国も考えた。当初は保元の乱までとしていたが、中途半端なので文治二年までに拡大した。すると、五味文彦氏が指摘した以外にも美福門院の分国とすべき国がある点に気づいた。
 一方、佐伯智広氏の『中世前期の政治構造と王権』の中でも美福門院知行国とその国司が一覧表として掲載されていたが、五味氏のものと少しも変わらず、新たな研究がこんなことで良いのかとの感想を持った。成勝寺領の寄進者が表にされていたが、これも重要人物藤原顕頼を藤原忠教と誤って比定しており、長村氏による「案主大夫」を「阿須那」に比定した事例とともに唖然とさせられてしまった。
 今回、西田氏によりなされた長野庄成立に卜部兼仲が関わったとの指摘は妥当なものであるが、実際にどの時点で。誰に寄進がなされたかについては、なお検討の余地があると思った。知行国主と国守の一覧表を眺めれば、兼仲が二期八年石見守であったことが目立っている。そして和泉守藤原宗長と入れ替わっている点、さらには宗長が下野守であったことも気になった。杵築大社領家廊御方に関する佐藤氏の新説とともに西田氏の新説が自説の再検討を行う上で良いきっかけにはなったのも事実である。

待賢門院領の伝領2

 円勝寺落慶供養が行われたのは大治三年(一一二八)三月であるが、八月にはすでに寄進(の申出が)されていた多くの私領候補地から、藤原永範の私領の券契が選び出され、翌年には待賢門院庁牒によって正式に円勝寺領として立券を遂げたのが遠江国質侶庄であった(野口氏論文による)。儒者として有名な永範は、摂関家家司として保元二年正月から応保元年正月まで石見守(知行国主藤原忠通)を務める一方で、保延五年一二月に前任者の死亡により文章博士となってことを契機に後白河院から認められ、長寛二年正月には大宰府大弐となり、藤原南家出身の儒者としては異例の公卿に進んだ人物である。ただし、二七才であった大治三年の時点では目立った存在ではなく、寄進の背景として野口氏は永範の妻の父大江行重が白河院庁主典代であったことから(、永範の妻ないしは娘が待賢門院女房ではなかったかとする。また永範一家と待賢門院の同母兄実能を祖とする徳大寺氏との間のつながりが想定できる(仁木夏美氏「藤原永範考」)。
 円勝寺落慶供養の翌年に石見守となった卜部兼仲は石見国との関係を有していたというよりも、待賢門院との関係から院の分国となったと思われる石見国の経営手腕を期待されたのではないか。弟基仲、子仲遠の活動時期を勘案すると兼仲は大治四年の時点で三〇才前後であったと考えられる。
 兼仲の後任藤原宗長の系譜上の位置づけは不明としていたが、自作の国司関係系図で確認すると藤原宗兼の子で、平頼盛の正室となった宗子(池禅尼)の兄弟であった。宗兼の姉妹である宗子は堀河天皇の女官を務め、その孫崇徳天皇の乳母を務めている。
 宗兼は保安二年(一一二一)に和泉守に補任され、同五年初めには近江守に遷任し、大治五年一〇月時点でも現任が確認できるが、翌天承元年(一一三一)二月には後任の藤原顕輔が補任された。一方で同年一一月には和泉守として「某宗兼」の現任が確認できるので、宗兼は近江守から和泉守に遷任したと思われる。その後しばらく和泉守に関する情報はなく、次にみえるのが保延三年(一一三七)末の藤原宗長の和泉守から石見守への遷任である。以上のことから、和泉守宗兼の後任が子の宗長であり、宗長の後任が卜部兼仲であった。
 待賢門院が院号宣下されるのは子である崇徳が五才で即位した翌年の天治元年(一一二四)一一月であり宗兼が和泉守となった時点では院分国であったわけではないが、姉妹が崇徳の乳母となったのを契機に待賢門院との関係が強まり、二度目の和泉守となった時点では和泉国は院分国となり、次いでその子宗長が和泉守を継承し、次いで石見国守卜部兼仲と入れ替わったのではないか。そして宗長が最後に国守を務めた下野国は前任者が崇徳の近臣藤原資憲であった。宗長と資憲の関係としては、宗長の姉妹である池禅尼の母は藤原有信の娘であり、資憲の父は有信の嫡子実光である。池禅尼は崇徳の子重仁の乳母で、その夫平忠盛は待賢門院別当であった。
 以上、一時期ではあるが、石見国、和泉国、下野国が待賢門院の分国であった可能性は高いのではないか。そして卜部兼仲が石見国在任中に長野庄の寄進がなされた場合、その規模は最終的なものとは異なっていた可能性も高い。

2018年6月 6日 (水)

待賢門院領の伝領1

 遅ればせながら野口華世氏「待賢門院領の伝領」(『平安朝の女性と政治文化-宮廷・生活・ジェンダー』(二〇一七年三月)を読んだ。ネットで注文して四日目に入手した。これを確認してから、西田氏の論文について検討しようとも思ったが‥‥。
 野口氏は八条院領・宣陽門院領・室町院領と異なり待賢門院領・上西門院領の名が世代を超えて伝承されなかったのは何故かという課題を設定して、表題のテーマについて深めている。結論を言えば、待賢門院領は法金剛院領と円勝寺領が中心であったが(その外に庁分があったはず)、院の死後、院の仏事を行っている子の崇徳上皇が管理したが、保元の乱で崇徳が敗北したため、上西門院領となったものもあったが、没収されたり、領家が本家を変更して枠組みから離脱したものがあったことが述べられた。承久の乱の直後の宣陽門院領目録には待賢門院から上西門院と後白河院をへた所領区分はあっても、本来の法金剛院・円勝寺・庁分などの区分は一切記されていないのはそのためだとする。
 待賢門院の死から、後白河院の即位・院政開始や統子内親王の立后までには空白期間があり、崇徳上皇がその間の受け皿となったのはその通りであろう。崇徳上皇には待賢門院領以外に、御願寺である成勝寺領とともに、崇徳院庁分の庄園もあったはずである。長野庄について西田氏は母待賢門院から子である後白河院(母の死亡時一九才)に譲られたと述べたが、その可能性はほとんどないと思われる。
 知行国主藤原忠実、国守源国保(実権は父雅国)のもとで初めて立券がされた場合、摂関家領になる可能性が高いが、石見守卜部兼仲が仲介した私領の庄園化を前提として、石見国最大の長野庄が成立したとすれば、崇徳上皇領となることは想定可能である。待賢門院が卜部兼仲に河内国宇多庄を与えるよう遺言していたように、兼仲は待賢門院を介して崇徳との関係を有していたと思われる。
 兼仲は藤原頼長との関係も有していたが、こちらは個人対個人の関係というよりも、氏長者としての頼長との関係であり、頼長が没落すれば氏長者に返り咲いた忠通との関係を構築できたであろう。

石見国司と御神本氏3

 いままで自身は注目してこなかったが、西田氏は益田兼栄の子兼高の姉妹である女子に「大貫三郎清滝静基妻」と注記されていることに言及されていた。静基が一〇世紀に出雲国押領使に補任された清滝静平の子孫とされ、出雲国と石見国の武士間の交流を指摘された。それそのものには問題は無いが、出雲国内には「大貫」という地名は存在しない。それがあるのは石見国邑智郡内(現在は江津市桜江町大貫)である。江川中流域でその二km上流には甘南備寺があり、10km上流が源範頼下文の中で兼栄・兼高父子の所領として記された河本(川本)である。大貫とその周辺は土地には恵まれないが、江川の水運をその経済的基盤としていた。これは石見国の特徴でもあり、出雲国に対して耕地面積は半分程度であるが、江戸中期までは出雲国に匹敵する人口を有していた(現在は出雲部の4割弱)。
 大貫の地が注目されたのは近年、大貫村の庄屋を務めてきた中村家文書が公開されたことによる。当初は県内の被差別身分に関係する史料が残っているとのことと、中村久左衛門氏(当主は代々この名を継承)からの調査依頼を受けて予備調査を行った。一緒に調査を行った松原高広氏と中村氏が旧知の間柄であったことによる。次いで、県立図書館と古代歴史博物館の関係者の協力を得て文書目録を作成した。これによりその情報が伝わり、石見銀山に関わる史料や初期の検地帳が残っていることから、東大史料編纂所が調査を行い、その成果は久留島典子氏を中心とする報告書の中でも述べられた。
 中世の大貫は摂関家領大家庄に属していた。石見国でも江川東岸の地は出雲国との関係が密であった。その意味で、大貫三郎が出雲国押領使清滝氏の一族である可能性は十分にある。そして、治承・寿永の乱でいち早く源氏方となり兼栄・兼高父子は御神本氏惣領の地位と河本郷を含むその広大な一族領を手にした。そうした状況で兼栄の娘が大貫三郎と結婚するという記述は十分理解できる。
 以上、話がやや拡散した感はあるが、「石州益田家系図 柿本朝臣」の季兼から兼高に至る七代の部分には一定程度の信頼性があるとみてよかろう。 

石見国司と御神本氏2

 宗季の嫡子と思われる国季の名が、久安二年~仁平三年まで二期八年石見守であった源国保(実権は父雅国が持つ)から与えられた「国」と父の名を継承した「季」からなっていることはもやは言うまでもなかろう。その他の三人も国兼・国頼・国宗といずれも「国」を付けている。末子の国宗は父から「宗」を与えられた可能性が強く、嫡子国季に次ぐ位置にあった可能性もある。仁平四年(一一五四)正月に石見国守は源季兼に交替し、藤原忠通が石見国知行国主の座に復帰した。そして保元元年七月に保元の乱が起こり、崇徳上皇・藤原頼長は失脚した。頼長の父忠実は処罰は免れたが影響力は低下した。
 保元元年(1156)に比定できる十一月九日書状(兵範記紙背文書)の中で「修理権大夫雅国」は尾張国小弓開発御庄預所として、現地の庄官の訴えを摂関家家司平信範に伝え、問題解決のための摂関家政所下文の発給を求めているが、一方で自身は「籠居」していると記す。保元の乱の四ヶ月後であり、乱で頼長が死亡し、忠実の発言権が低下したことの影響であろう。子国保は石見守から源季兼と交替する形で対馬守に遷任したが、その地位を失った可能性が大きい。
 乱の影響は宗季の四人の子にも影響し、それまでは庶子であった人物が石見国守源季兼のもとで新たな惣領となり、その名を「国兼」とした可能性が大きい。元の名は不明であるが、国兼の子孫はいずれも「兼」をその名に付けていく。源季兼の娘は藤原(日野)兼長との間に嫡子兼光を産み、季兼が能登国で立券した摂関家領若山庄領家は日野家が継承していく。季兼の子季広の系統は国守となる一方で九条家家臣として続いていく。季長も同様だが、その子兼親と兼時は祖父季兼の「兼」をその名に付けている。

 

石見国司と御神本氏1

 鈴木真年氏編『諸氏家牒』に収録されている「石州益田家系図 柿本朝臣』により、益田氏の祖とされる御神本国兼の父祖並びに兄弟に関する情報を得ることが可能となった。ここでは国兼の曾祖父季兼-祖父末仲(季仲)-父宗季(実際には父子のみならず兄弟である可能性もあり)に着目したい。季兼は父季継から「季」の字を継承し、それに大治四年以降二期八年石見守であった卜部仲兼の「兼」の字を付けている。この時代の石見国は仲兼が仕えていた待賢門院の分国であった可能性がある。そして、保延三年末に仲兼と和泉守であった藤原宗長が入れ替わる形で、宗長が石見守となった。宗長がいつまで在任したかは明確な史料を欠くが、和泉守となった兼仲の在任は、後任である藤原光盛が補任された永治二年正月以前の一期四年であったので、宗長も同様の可能性があるが、後任の源清忠(知庄国主藤原忠通、前任の大和国でのトラブルにより遷任)が補任された天養二年正月の直前まで石見守であった可能性もある。
 季兼の後継者季仲は父から「季」を継承し、仲兼から「仲」を与えられた可能性が大きい。そして季仲の後継者宗季は宗長の「宗」を与えられ、季仲の「季」を継承している。藤原宗長は『本朝世紀』によると仁平三年六月に死亡しているが、「前下野守宗長」と記されており、石見守の退任以後、下野守に補任された可能性が大きい。下野守の補任状況を勘案すると、その時期は隠岐守から遷任した可能性が大きい藤原資憲が天養元年末に下野守を辞任した直後の天養二年ではないか。藤原資憲は実光の子で待賢門院の子崇徳天皇の側近であった人物であり、鳥羽院庁下文の署判者としてもみえる。
 宗長と待賢門院との関係を示す史料は確認されていないが、ともに待賢門院と関係の深い卜部兼仲と藤原資憲と国守を交替していることから、宗長もまた待賢門院の関係者であった可能性は大きい。資憲が下野守を辞任した翌天養二年には資憲が出雲国揖屋社を崇徳天皇の御願寺成勝寺に寄進しており、これが辞任の背景ではなかったか。この揖屋社の立券・寄進に続いて杵築社領の立券・寄進が行われた可能性が大きいこともすでに述べたとおりである。

2018年6月 4日 (月)

益田氏研究の課題3

 兼忠がこれ以降の文書に登場しないのは死亡したからであろう。三隅氏系図にはその子として於々丸が記されているのみであり、幼少であったため、弟兼利が後継者とされたのだろう。観応三年八月日俣賀三郎致治軍忠状(この人物が俣賀文書で「内田左衛門三郎」と呼ばれた人物であるが、内田家文書に登場する内田氏惣領「内田左衛門三郎」(致世)とは別人である)には反幕府方として大将三隅次郎入道とともに益田助二郎(助利)・高津余次長幸がみえるように、益田氏惣領はなお反幕府方であったが、ここにみえない兼忠自身は死亡していたと思われる。
 益田氏惣領が反幕府方に転じたのは兼世の子兼忠の判断であったが、兼忠が死亡したことで兼世の発言権が復活し、幕府方への復帰を決めたと思われる。そのことを示すのが、北朝年号を使用した「文和二年」一〇月五日乙吉・土田村検地帳である。これに対して、足利直冬が派遣した仁科盛宗はその直前の同年九月一八日には内田氏惣領致世に対して、石見国凶徒退治のため三隅郷に到着し、近日中に益田に発向するので準備をするようにとの催促状を出している。
 龍雲寺蔵三隅氏系図には兼世とその子の死亡に関する記述はないが、益田都氏所蔵益田家系図に代表される流布本では、兼代(世)・兼利兄弟が大谷城で寺戸某によって殺害されたことを記している。そして益田都氏所蔵本には兼利について「あるいは兼代嫡男トモ」と記している。兼世の本来の嫡男兼忠が死亡したため、弟兼利がその養子となって益田氏惣領となったことを反映した記述である。この結果、反幕府方に留まっていた益田兼見が新たな惣領となった。
 以上のように、康永四年以降、兼世とその後継者に関する記録がないというのは誤りである。古文書に限定しても、兼世の子兼利が登場する観応三年八月日俣賀三郎致治軍忠状が存在している。この問題について、流布本よりも龍雲寺蔵三隅氏系図の方が事実を伝えているが、兼忠が死亡し、弟兼利が惣領になった時点で筆を止めている。まずいと思って削除したというよりも、三隅氏系図作成時に参照した益田氏系図がそうなっていたのだろう。

益田氏研究の課題2

 論じればきりがないので、二つ目にうつると、南北朝初期の益田惣領兼世の活動が、康永四年八月以降、その子孫も含めて確認できなくなり、益田氏の惣領家は兼見の系統へ移るとされた点である。これについては、最近編纂中の『石見の合戦』中の益田兼見の原稿の中でも同様な記述があり、言葉を失ってしまったが、同じ記述を再び見て驚いたどころではない衝撃を受けた。
 現在から二五年前に「益田氏惣領制の再検討」との報告を島根県中世史研究会で行い、その時点で解決済みの問題である。龍雲寺蔵三隅氏系図の兼世に関する記述は文書で確認できる。次郎兼世が惣領であるが、これは太郎兼長から次郎兼久へ惣領が移ったためである。兼胤も次郎であった。道忍兼弘が孫太郎であったのは、太郎兼長の娘を母としたからであるが、兼世で本来の次郎に戻った。
 三隅氏系図には兼世の男子として次郎太郎兼行、弥次郎兼直、又三郎兼氏、助次郎兼利の四人が記されている。建武元年正月日吉川経明軍忠状によると、一三日には「益田弥二郎」とともに高津郷小山城を攻めているが、弥二郎=嫡子兼直(忠)である。建武三年七月二一日に三隅二郎入道信性ら南朝方が益田城を攻撃した際に、幕府側の中心として二郎太郎兼行と舎弟三郎(兼氏)がみえる。兼行は系図の記載順のように長子であったと考えられる。建武二年二月一二日に益田本郷等を本領安堵した後醍醐天皇綸旨の宛所は切り取られているが、そのわずかな墨跡から、三隅次郎入道ではなく、益田次郎宛と考えられる。
 兼世の嫡子は弥次郎兼直であり、兼利が助次郎なのは兄兼直の養子・後継者となったためである。この兼直が貞和六年岩田胤時軍忠状に証判を加えた「兼忠」である。同一人物が系図などで同音の別字で記されるのはよくあることである。後に、足利直冬との関係で「忠」から「直」に変更した可能性はあるが、いずれにせよ「かねただ」である(以下は兼忠で統一)。この人物に関する史料がこれ以降残っていないことが誤解が生ずる原因であるが、正しい解釈をすることはさほど難しい問題ではない。ただし、自分の頭を使って考えればという条件付であるが。

益田氏研究の課題1

 前回の補足の前に、今回の西田氏の論文の中で早急に再検討していただきたい点を二点記す。
 一つは惣領兼長が小笠原氏からの養子を除けば男子がないまま死亡したことにより、惣領が益田庄内山道郷を所領としていた弟兼久に移動したとされる部分である。兼久の孫である道忍については山道孫太郎と呼ばれたように、山道郷を所領としていたが、これは兼久の子で道忍の父である兼胤が所領の大半を没収されたからである。兼長の遺領で後家阿忍に譲られた伊甘郷と弥冨名(こちらは一部か)は没収の対象とはならなかった。阿忍が孫である道忍に伊甘郷を一度は譲ろうとしたのはそのためであった。その後、預けた文書を抑留するなどの問題から不信感を持ち、悔い返したのである。しかし、阿忍の曾孫となる道忍の子については別であり、最終的に阿忍は孫と曾孫に所領を譲った。伊甘郷惣領地頭職は孫の一人である鳥居女房(安濃郡鳥居郷を支配する一族の男性に嫁いでいた)に譲った。
 問題の兼久については周布氏系図中の兼久室幸寿の項に兼久は飯田・宅野両郷地頭職を譲られていたが、兄兼長の死により惣領となったことが記されており、その内容には矛盾はない。長野庄内の益田氏領であった安富名は庶子周布氏に譲られ、飯多郷は同じく庶子領とされた。兼久が山道郷を所領としたのは兄兼長の死後である。兼久の嫡子兼胤が所領を没収されたことは龍雲寺三隅氏系図にしか記されていないが、総合的にみると事実であったと判断できる。
 兼久領であった長野庄内飯田郷は益田兼季が掃部助仲広との裁判で益田氏領と認められていたが、本来、長野庄が成立した時点で益田氏はその所領を得ていなかった可能性が大きい。この点は、長野庄成立時に益田氏が、石見国衙で鎌倉初期のような圧倒的な勢力を持っていなかったことを示すものである。これが保元の乱で藤原頼長・源雅国の影響を受けた勢力が没落し、益田氏の相対的地位が上昇し、さらに治承・寿永の乱を生き残った一族が平家方となって没落した人々の闕所地を獲得して、広大な所領の支配を認められた。
 源義仲は平家方が多い中、東部の河合氏を押領使として国外の戦闘に動員したが、河合氏は留守中に国内の所領の押領の危険性が生じ、これに対処するため無断で帰国せざるを得なかった。それほどに石見国内には平家方が多かったのである。また、益田氏関係系図では国兼の子兼実(ないしは真)がおり、「案主大夫」ないしは「安主大夫」であったことは共通しており、これを『源平盛衰記』の「案主大夫」に比定するのは自然なものであり、批判されるべきはこれを全く種類の異なる地名「阿須那」ではないかとする長村祥知氏のずさんな見解である。公式を機械的に当てはめるからこのような苦しい推定をせざるをえなくなったのである。

長野庄と保元の乱3

 卜部兼仲が石見国司であった大治四年(一一二九)から保延三年(一一三七)までの二期八年間に庄園の寄進・立券が行われた可能性は少なからずあるが、その場合でも最終的な長野庄とは異なる領域の限定されたものであり、且つ、兼仲は摂関家との関係も強く、待賢門院領であったかどうかは検討の余地がある。永治二年(一一四二)正月には近衛天皇の即位に伴い崇徳は上皇となり、久安元年(一一四六)八月には待賢門院が死亡した。さらに久安六年(一一五〇)九月には藤原忠実が氏長者を忠通から奪って頼長に与えている。
 前述のように氏長者となった頼長が兼仲・基仲兄弟に梅宮社務と宇多庄務を与えたのがこの時期である。また、久安二年正月には大和守から石見守に遷任して一年にしかならない源清忠に代えて、源国保が石見守となっているが、実は知行国主も忠通から忠実に交代している。国保は二〇才未満であり、父で忠実の側近であった源雅国が石見国務の実権を仁平三年(一一五三)末まで握っていた。元三泰雄氏によると大和国における忠通と興福寺の対立の背景にも忠実がからんでいた。
 石見国最大の庄園である長野庄が貞応二年石見国惣田数注文にみえる体制となったのは、この国保・雅国ならびに忠実・頼長が石見国衙の主導権を握った時期であったと思われる。飯多郷の長野庄惣政所の関係者が国頼入道、国久、源茂国、政国といずれも「国」の字をその名に付けている。本家はと問われれば、待賢門院の子崇徳上皇が有力である。そうであれば、保元の乱における崇徳・頼長の敗北が長野庄にも大きな影響を与え、長野庄が後白河院の後院領となり、後に崇徳の除霊が意識されるようになると、後白河院から粟田宮に寄進されたのではないか。崇徳との関係があった庄園として粟田宮に寄進されたのである。石見国知行国主は仁平四年(一一五四)に忠通に交替し、その側近で各地で庄園を寄進してきた源季兼が石見守となり保元三年(一一五八)末にこれも摂関家家司で学者である藤原永範が継承した。益田庄の立券は石見守源秀兼の時代であろう。
 以上、西田氏による新たな史料発掘を踏まえた論に刺激を受けてまとめてみたところである。兼仲とその一族についてはほとんど龍野氏の論文の成果に依拠している。待賢門院との関係と摂関家との関係の両方を踏まえる必要があろう。なお、兼仲の末裔と思われる人物が発給した文書は元応二年一二月一七日某袖判御教書(長府毛利家文書)その形式(袖判ではなく奥上判)が公卿発給文書と異なっており、兼仲が極めて有能な実務家であったことからすると、その立場は領家というよりは、領家の意向を実行する預所的なものではなかったか。また、梅宮社務としての兼仲・基仲兄弟の系図は残っているが、その中には仲遠はみえても仲広はみられない。

長野庄と保元の乱2

 後白河院政期の治承三年八月には摂関家氏長者九条兼実が梅宮領宇多庄の畠所当の免除を申請したことに対して、朝廷からこれを許可する意向が伝えられている。八条院領となっていた宇多庄の実質的支配者はなお摂関家氏長者であったことがわかる。次いで元暦元年一二月には、兼実が卜部基忠に代えて仲遠を梅宮社務職に補任したのに対して、後白河院から、仲遠への補任状が兼実に返され、梅宮領宇多庄の庄務権も仲遠に与えよとの意見が示された。これにより兼実は庄務を加えて補任状を再提出している。この事件のきっかけは、梅宮社正預の基忠(元忠)に「不快事」があったことにより、後白河院が基忠の解任と権預であった仲遠への交替を求めたことであったが、鳥羽院の時代よりも梅宮社務と宇多庄務に対する院の干渉が強まっていることがわかるが、なお両方とも摂関家氏長者が権限を有していた。基忠は基仲の関係者であろうが、これにかわって兼仲の子仲遠が補任されたことにより「仲」を名乗る人々が梅宮社卜部氏の中心となったと思われる。兼仲自身については永万元年六月の神祇官諸社年貢注文(永万文書、平安遺文三三五八)には、梅宮社が藁二〇〇束・薪二〇〇束を負担することになっていたが、兼仲が年預の時に免除されたことが記されており、頼長や鳥羽院との関係により実現したのではないか。
 西田氏により、卜部兼仲が待賢門院侍所所司で民部丞に任じられており、待賢門院御産の祈祷を行った成功により、大治四年に石見守に補任されたことが明らかにされた。それは兼仲が梅宮社務に関わる人物であったからであり、摂関家氏長者との間により強い関係を持っていた。兄忠通に代わって摂関家氏長者となった頼長は、待賢門院の遺言と鳥羽院の意向も踏まえて兼仲・基仲兄弟に、橘氏氏院である学官院を作ることを条件に、梅宮社務とともに梅宮社領宇多庄務を与えた。
 西田氏が明らかとしたように、この兼仲の子孫であろう掃部助仲広が長野庄飯多郷地頭益田兼季を訴え、応安七年には卜部仲光(院宣の奏者藤原仲光とは花押が異なり別人)長野庄惣政所職の安堵の奉書を発給し、応仁二年には粟田社領長野庄豊田郷領家分の一部が領家蔵人太郎仲尭に安堵されている。ただし、西田氏も長野庄領家としての権益が分割されていたことを指摘しているように、「惣政所職」といっても長野庄内の他の所領の政所職を支配するようなものではなくなっている。長野庄そのものが、大家庄と同様に多くの所領の集合体であり、益田庄における益田本郷のような核といえるようなものはないのである。

長野庄と保元の乱1

 本日、西田友広氏より「中世前期の石見国と益田氏」の恵贈を受けた。なお精読の必要はあるが、一読した時点での検討結果を以下に述べたい。
 最も注目すべき点は、長野庄が大治四年から二期八年石見守を務めた①卜部仲兼によって、本家待賢門院、領家兼仲の庄園として成立し、②待賢門院からその息子である後白河院に相伝され、③後白河院によって粟田宮社領に寄進されたことを明らかにしたことである。このうち③についてはその通りであると思った。ただし、待賢門院領のほとんどは統子内親王(上西門院)が継承している点(なぜ後白河院が継承したのか)と保元の乱の影響を全く考慮されていないという点が疑問である。西田氏は兼仲の子として文徳源氏源資遠の養子または猶子となった仲頼をあげるが、建久二年に後白河院の意向により石見守に補任された卜部仲遠(「給石州」とあり、その経歴からすると知行国主であろう)との関係は不明であるとした。以下で検討したい。
 建久二年に石見守に補任された卜部仲遠は橘氏の氏神梅宮社(山城国、摂関家氏長者が支配)の社務として八条院領和泉国宇多庄の支配に当たっていたが、その一方では「後白川院北面歴名」に「前下野守」としてみえているように、後白河院に奉仕していた。仁安三年から安元元年にかけては二期八年下野守を務めていた。『台記』久安三年五月二七日条に「仲遠 兼仲子」とあり、『玉葉』安元元年九月六日条には下野守卜部仲遠が穀倉院別当に補任されたことについて、九条兼実は、院に祗候していたためだが、前代未聞の人事としている。
 宇多庄は本来は橘氏の氏長者が支配する庄園であったが、橘氏氏神梅宮社の任免権を有する摂関家氏長者藤原頼長は、橘氏氏院である学官院を再建することを条件に、本来の支配者であった橘氏氏長者に代わって兼仲・基仲兄弟に梅宮社領宇多庄の支配権を認めた(龍野加代子氏「八条院の伝領過程をめぐって」、法政史学四九)。その際に、鳥羽院の意見を求めたところ、院からは待賢門院が死亡する際に卜部兼仲に対して宇多庄を与えることを遺言したとして、卜部兼仲の弟基仲に庄務を行わせることに賛意を表した。これを受けて頼長が基仲に宇多庄務を執行せよと命じた。兼仲や基仲は摂関家に奉仕する一方で、院の北面として重要な役割を果たしており、それが兼仲の子兼遠が建久二年に石見を与えられる背景となった(この段落の記事の内容は不正確なので、訂正版を参照のこと)。
 安元二年二月日八条院領目録に和泉国宇多勅旨がみえており、梅宮社領宇多庄が八条院領宇多庄となっている。その背景について龍野氏は史料が無く不明であるとするが、摂関家氏長者であった頼長が崇徳院とともに敗北した保元の乱があったことは確実であろう。

2018年6月 2日 (土)

上西門院の分国

 これについても五味氏が応保元年から承安三年までの加賀国、寿永二年と文治二年以降の備後国、さらには寿永二年から文治元年にかけての能登国を上西門院分国としている。加賀守は基重の子持明院基宗で、備後守は基宗の子基能とその弟家行、能登守は基能である。
 能登国は藤原通重に続いてその子持明院基家が久安四年(一一四八)から久寿二年(一一五五)にかけてと、保元元年(一一五六)から応保元年(一一六一)にかけて国守に補任されている。次いで応保二年(一一六二)から永万元年(一一六五)にかけては平教盛が、仁安三年(一一六八)から安元元年(一一七五)にかけては知行国主基家のもとで平通盛が国守を務めている。教盛は清盛の異母弟で、待賢門院女房であった藤原家隆女子を母としている。さらには、待賢門院の子崇徳上皇の側近であった藤原資憲女子を妻とし、その間に生まれたのが通盛、教経と後鳥羽の外祖父となる教子である。資憲自身は保元の乱後出家したが、その子俊光・基光はいずれも皇太后大進として上西門院に仕えていた。この点を踏まえれば、教盛が上西門院分国での国守であった可能性が強いのではないか。知行国主基家と国守通盛の上にも分国主として上西門院がいたのではないか。
 安元二年(一一七六)正月には知行国主平重盛のもとで越前守に通盛が、能登守には重盛の子忠房が補任されているが、その後、能登国では治承三年(一一七九)末の国守通盛をへて、翌年正月には知行国主平教盛のもとで子教経が国守に補任されている。重盛の知行国は平氏の知行国であるが、治承三年末以降の能登国は上西門院分国とすべきであろう。その後、寿永二年(一一八三)一二月には上西門院分国のもとで持明院基能が国守を務めている。
 以上、待賢門院流の分国をみたが、平氏知行国が増加する中で、上西門院の分国は独立性を維持して存続していたと言えよう。中でも能登国は継続して院の分国ではなかったか。

待賢門院関係者の分国

 待賢門院そのものの分国については明証を欠いており、わずかに五味文彦氏が可能性のあるものとして康治二年から久安元年にかけて源光隆が国守であった安芸国を挙げている程度である。ここでは、さらにおおざっぱであるが、その関係者が国守であった事例をあげて、分析を加えて見たい。期間は永久六年(一一一八)の立后から院が死亡する久安元年(一一四五)八月二二日までを原則とする。
 加賀国は元永二年(一一一九)一二月二九日以降、院の同母兄徳大寺実能が国守であったが、園城寺焼失のためその造営料となり、旦那である西園寺通季が同年閏四月一一日に知行国主となり、造営にあたった。国守は弟季成であった。通季は待賢門院の同母兄で、季成は異母弟であった。
 次いで大治元年二月二六日には藤原季兼が能登守に補任された。季兼は備中守で待賢門院別当であった敦兼の子であったが、その弟季行がこの時点で一三才であり、季兼もまだ一〇代であったと思われ、待賢門院の分国であった可能性がある。季行は大治五年(一一三〇)に一七才で阿波守に補任されている。続いて長承二年(一一三三)五月六日には二〇才の季行と季兼が能登守と阿波守を交替している。これも院分国ではないか。
 季行は続いて保延六年(一一四〇)~康治元年(一一四二)末まで因幡守を務めている。大治三年からの藤原通基、長承三年からの西園寺通季の嫡子公通も待賢門院関係者である。通基は待賢門院官女で上西門院の乳母となった女性を室としている。これに続くのが五味氏が指摘した源光隆で、二〇才であった康治二年~翌年にかけて安芸守に補任された。また康治二年から久安五年にかけては藤原季兼が上総介(親王任国で実質的は守)に、康治元年から久安三年にかけては通基の嫡子通重が能登守に補任されている。
 大治二年正月には西園寺公通が丹波国守に補任されているが、五味氏はこれを公通を娘婿とする藤原長実の知行国とされた。前述の因幡国の場合は長実死亡後である。保延元年には藤原通基が丹波国守に補任されている。
 久安元年に待賢門院が死亡したが、上総と能登の場合、影響を受けていないので、厳密な意味での待賢門院分国とはいえないが、広い意味での関係者の分国であるとは言えるのではないか。その院領所領を継承した上西門院は大治元年八月、生後すぐに内親王宣下をうけ、翌二年四月には准三后に除されており、受け皿がないわけではない。ただし、院号宣下は保元四年である。
追加:大治四年から保延三年まで卜部兼仲が国守であった石見国は待賢門院の分国ではないか。和泉国についても国守藤原宗長が石見守兼仲と交替しており、また和泉守の前任者は父宗兼であり、院分国であった可能性がある。さらに宗長は下野守にも補任されているが、その前任者は崇徳の近臣藤原資憲であり、これも分国ではなかったか。

2018年6月 1日 (金)

主君押込

 表題は、笠谷和比古氏『主君「押込」の構造―近世大名と家臣団』で一般に知られるようになった慣行・言葉で、全ての組織にとって必要なものである。「巻き添え」で述べた状況が今現実のものとなっている。郷原氏は将棋の詰みだとしたが、そうではなく囲碁で勝ち目のなくなった側が、投了はせずに対局を続け、相手の時間切れによる逆転勝利を狙っているとした。
 おろかものは今の職を失えば、憲法改正が不可能となり、自分がやることがなくなってふぬけになってしまうので、自分から非を認めて辞職する可能性はゼロである。解散の可能性もなおある。この状況を最終的に打開するのが「白票の薦め」であったが、今のところ世論調査で白票を投じる人はないようである。とりあえずは新潟県知事選挙が焦点となるが、一方はお金と脅迫により集票を図る力があり、どうなるかは、与党の一角を占める政党の支持者がどう行動するかであろうか。また、お金に目がくらんでいる人が様々なレベルでいるため、政権交代はとにかくまずいという幻想にとらわれている人が多いのも確かである。
 その前に問題となるのが、「主君押込」である。藩主の行跡が悪い場合、家臣を注進とする家臣により諫言がなされ、それが繰り返されても改まらない場合は、家老らが藩主の前にならび「お身持ち良ろしからず、暫くお慎みあるべし」と告げて、藩主の刀を取り上げ、座敷牢のようなところに強制的に監禁してしまうものである。監禁の後も改悛がみられなければ、藩主は隠居させられ、嫡子や兄弟などの適当な人物が新たな藩主となる。このは近世の状況であり、戦国期ならば愚か者のもとから次々と家臣が離れていく。
 イギリスの名誉革命はいくら警告しても反省のないジェームズ二世に国外に出てもらい、オランダから王家の女性と結婚していた人物に「権利の宣言」を示し、同意を得た上で新たな王に迎え、その内容を「権利の章典」として発布した。これ以降段階を踏んで、「王は君臨すれども統治せず」というイギリスのルールが確立したことはあまりにも有名である。これも外見上は違うように見えるが、その心は「主君押込」と同じだと思うがどうであろうか。
 近年、日本ではリーダーシップの重要性が指摘されているが、一方でリーダーとしての見識を系統的に身につける場が確保されていないため、力量の不十分なリーダーによる独裁という悪い状況が増えている。前述のように、ホンダでは前社長が交代してこれでよくなるかとの期待が会社の内外に生まれたが、後継社長の評価も低いようである。マツダでも後継者指名が行われたが、「なんであの人が」「前社長は最後に誤った」との評価がある。互いにルールを踏まえて論争する場面が今こそ必要な時はないが、日本の前途は今のところ真っ暗である。外からの新しい血を入れることも必要か。

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