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2018年6月25日 (月)

藤原資憲関係史料3

 (10)俊盛は美福門院の兄弟顕盛の子で、院分国である越前国守であった。母方の祖父敦兼は堀河天皇乳母を母とし、自らは待賢門院別当を務めた。敦兼の子季兼と季行は太治元年から保延四年にかけて能登守を務めているが、待賢門院の分国であった可能性が高い。
次いで待賢門院の死後は娘上西門院の分国となり、持明院通重・基家兄弟が国守を務めたことは前述の通りである。
 (12)信隆は備前守であるが、「国司一覧」では「信経」としている。「信隆」との読みは史料編纂所の「古記録データベース」の解読に基づくものだが、「大日本史料データベース」で検索すると、手書きの同文書が表示され、そこでは「信経」と読んでいる。ただし藤原信経は天養元年(一一四四)正月二四日に伊賀守に補任され、仁平二年正月二六日に備前守に遷任しており該当しない。
 五味文彦氏は久安三年一〇月日備前(『平安遺文』二六三二は紀伊国とするが誤り)国司庁宣案を根拠に天養元年正月から仁平二年正月まで、備前国は知行国主藤原忠通のもとで源信時が国守であったとされるが、当該文書には「大介源朝臣」が署判を加えている。天養元年正月までは忠通のもとで源国範が国守であったとされるが、この関係者であろうか。国範は村上源氏師房の孫国信の子で、その兄弟に「信時」がおり、久安四年一〇月時点の備前守は源信時とすべきである。国範の後任が信時であった。ちなみに忠実の側近であった雅国も兄弟である。ということで、「信隆」は「信時」の誤りであった。信時は藤原信経と交替する形で備前守から伊賀守に遷任した。ともに忠通の知行国であった。
 (13)重範は出雲守を務めた高階重仲の子で、泰重の兄弟である。天治二年五月二四日に鳥羽院の第三皇子君仁が誕生したことで、二六日には御湯殿始が行われたが、そこに兄弟である泰盛とともに六位の殿上人(六位蔵人ヵ)として「高重範 重仲男 同(進士)」がみえる(御産部類記)。久安四年一〇月二六日には信範とともに「判官代」としてみえる(仙洞御移徙部類記)。鳥羽院庁の役人であったが、高階氏系図には泰盛のみで重範はみえない。

 (14)~(17)は左右衛門府の関係者だが、(15)は義家の孫為義で、天仁二年(一一〇九)には義家の嫡子であった叔父義忠を殺害した義綱(義家弟)を捕縛したことで、左衛門尉に補任されている。
 以上のように高陽院の白河殿を訪問する際の準備にあたっているのは、鳥羽院庁の関係者であり、国守については院分国(鳥羽院・待賢門院・崇徳院)ないしは関白忠通の知行国の関係者であった。院ないしは摂関家との関係は排他的ではなく、両立するものであった。

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