koewokiku(HPへ)

« 揖屋社の領家2 | トップページ | 卜部兼仲関係史料 »

2018年6月30日 (土)

揖屋社の領家3

 承安二年(一一七二)九月一六日領家某書下には奥上判に花押が押されているが、具体的人名に比定はできない。親である助字(安ヵ)の譲りに任せて「三位」大宅助澄を別火職に補任している。「三位」を含めて表現に問題があるが、一定の事実に基づき後に作成されたものと思われる。親子とも「助」の字を使用しているのは揖屋社を寄進した領家藤原資憲によると思われる。 これに対して建久一〇年に政所下文で補任されたのは宗澄と「助」の字を使用していない。資憲のの没年は不明だが、弟資長は建久六年に七七才で死亡している。
 因幡国の長田氏がやはり「資」の字をその名に付けていることは前述の通りである。久寿元年(一一五四)から応保元年まで因幡守であった藤原信隆の父信輔も康治元年(一一四二)から久安六年(一一五〇)にかけて因幡守であったが、その室は保延元年五月日待賢門院庁下文の署判者としてみえる藤原通基の娘である。その姉妹は待賢門院の兄弟である三条実行の孫実綱と、西園寺通季の子実宗と婚姻関係を結んでいる。信輔と信隆の任期の間には藤原顕盛(顕遠)の子盛隆と盛方が因幡守としてみえるが、顕遠もまた保延元年五月日待賢門院庁下文の署判者としてみえる。
  出雲守については平治元年に平基親が伯耆守に遷任してしばらくは史料を欠くが、朝方の養子となった朝時は少なくとも一期四年の任期は務めたと思われる。朝方は朝隆と朝隆の異母兄で待賢門院と緊密な関係を有した顕能の娘との間に生まれている。承安四年には後白河院の側近藤原能盛が出雲守となったが、三年後に周防守に遷任すると、再び藤原朝方・朝定父子が知行国主と出雲守に返り咲いた。国守は交替したが、知行国主は建久末年までは朝方であった。
 以上、保元の乱により崇徳上皇は讃岐国に配流されたが、側近であった資憲は隠退しつつも、平教盛との婚姻関係を背景に影響力を維持し、出雲国と因幡国では待賢門院との深い関係を持つ人物が知行国主や国守となっていた。

« 揖屋社の領家2 | トップページ | 卜部兼仲関係史料 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 揖屋社の領家3:

« 揖屋社の領家2 | トップページ | 卜部兼仲関係史料 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ