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2018年6月 7日 (木)

待賢門院領の伝領3

 以下は一九九五年七月刊行の『島根県の地名』(平凡社)の「長野庄」の項文の一部である。
 建長八年九月二九日の崇徳院御影堂領目録(門葉記)に後白河法皇建立の粟田宮社領の一つとしてみえる。粟田宮が崇徳上皇の除霊のために建立された神社であるため、従来は益田庄や迩摩郡大家庄とともに崇徳皇后皇嘉門院の生家九条家が領家であったと考えられていたが、益田庄・大家庄と異なり九条家領であることを示す史料に欠け、建立者である後白河法皇が自らの所領を粟田宮に寄進したと考えることもできる。
 当初担当では無かったが、予定者で原稿を執筆しない方が出た影響で担当の見直しがされ、当方には長野庄と飯石郡が新たな分担として加わったため、執筆したものである。
 以上のように摂関家領ではなく院領であるとの説を提示したが、嘉元二年七月二七日某補任状によって混乱させられた。この文書は『鎌倉遺文』には発給者が幕府将軍久明親王だとされ、同じく掲載された同文の写しは北条時村下文だとされていた。これによりこの時点の長野庄が関東御領となっていると思い込まされたのである。
 ところが、二通は原本と写との違いはあるが同文であり、史料編纂所の各種データベースで「久明親王」「北条時村」で検索しても当該文書がヒットしないし、同文であるので同一文書の原本と写かと思い、史料編纂所久留島教授に問い合わせたところ、領家発給文書の原本と写であり、長野庄が関東御領であるとの説はあえなく崩壊した。一三世紀前半の長野庄文書の下文の花押も将軍頼経の花押に似ている部分があるが、同一とは言えないと悩んでいたが、領家の下文であった。
 問題はなぜ後白河院領であったのかという点であったが、崇徳・頼長方の所領として没収され後白河の後院領となったとしか考えられなかった。頼長領だとわかりやすいが没収された所領の中に長野庄はみえなかった。となると崇徳領か、と思ったが、どのようにして崇徳領になったのかというところでストップしてしまった。
 ここ最近は杵築大社領の成立について崇徳への寄進の可能性が大きくなったため、崇徳院領としては成勝寺領以外にないのか、崇徳院の分国はないかということを考えるため、一二世紀前半の国司・知行国主をエクセルにグラフの形式で入力した。併せて崇徳の母待賢門院の分国も考えた。当初は保元の乱までとしていたが、中途半端なので文治二年までに拡大した。すると、五味文彦氏が指摘した以外にも美福門院の分国とすべき国がある点に気づいた。
 一方、佐伯智広氏の『中世前期の政治構造と王権』の中でも美福門院知行国とその国司が一覧表として掲載されていたが、五味氏のものと少しも変わらず、新たな研究がこんなことで良いのかとの感想を持った。成勝寺領の寄進者が表にされていたが、これも重要人物藤原顕頼を藤原忠教と誤って比定しており、長村氏による「案主大夫」を「阿須那」に比定した事例とともに唖然とさせられてしまった。
 今回、西田氏によりなされた長野庄成立に卜部兼仲が関わったとの指摘は妥当なものであるが、実際にどの時点で。誰に寄進がなされたかについては、なお検討の余地があると思った。知行国主と国守の一覧表を眺めれば、兼仲が二期八年石見守であったことが目立っている。そして和泉守藤原宗長と入れ替わっている点、さらには宗長が下野守であったことも気になった。杵築大社領家廊御方に関する佐藤氏の新説とともに西田氏の新説が自説の再検討を行う上で良いきっかけにはなったのも事実である。

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