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2018年6月 4日 (月)

益田氏研究の課題3

 兼忠がこれ以降の文書に登場しないのは死亡したからであろう。三隅氏系図にはその子として於々丸が記されているのみであり、幼少であったため、弟兼利が後継者とされたのだろう。観応三年八月日俣賀三郎致治軍忠状(この人物が俣賀文書で「内田左衛門三郎」と呼ばれた人物であるが、内田家文書に登場する内田氏惣領「内田左衛門三郎」(致世)とは別人である)には反幕府方として大将三隅次郎入道とともに益田助二郎(助利)・高津余次長幸がみえるように、益田氏惣領はなお反幕府方であったが、ここにみえない兼忠自身は死亡していたと思われる。
 益田氏惣領が反幕府方に転じたのは兼世の子兼忠の判断であったが、兼忠が死亡したことで兼世の発言権が復活し、幕府方への復帰を決めたと思われる。そのことを示すのが、北朝年号を使用した「文和二年」一〇月五日乙吉・土田村検地帳である。これに対して、足利直冬が派遣した仁科盛宗はその直前の同年九月一八日には内田氏惣領致世に対して、石見国凶徒退治のため三隅郷に到着し、近日中に益田に発向するので準備をするようにとの催促状を出している。
 龍雲寺蔵三隅氏系図には兼世とその子の死亡に関する記述はないが、益田都氏所蔵益田家系図に代表される流布本では、兼代(世)・兼利兄弟が大谷城で寺戸某によって殺害されたことを記している。そして益田都氏所蔵本には兼利について「あるいは兼代嫡男トモ」と記している。兼世の本来の嫡男兼忠が死亡したため、弟兼利がその養子となって益田氏惣領となったことを反映した記述である。この結果、反幕府方に留まっていた益田兼見が新たな惣領となった。
 以上のように、康永四年以降、兼世とその後継者に関する記録がないというのは誤りである。古文書に限定しても、兼世の子兼利が登場する観応三年八月日俣賀三郎致治軍忠状が存在している。この問題について、流布本よりも龍雲寺蔵三隅氏系図の方が事実を伝えているが、兼忠が死亡し、弟兼利が惣領になった時点で筆を止めている。まずいと思って削除したというよりも、三隅氏系図作成時に参照した益田氏系図がそうなっていたのだろう。

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