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2018年6月 4日 (月)

益田氏研究の課題2

 論じればきりがないので、二つ目にうつると、南北朝初期の益田惣領兼世の活動が、康永四年八月以降、その子孫も含めて確認できなくなり、益田氏の惣領家は兼見の系統へ移るとされた点である。これについては、最近編纂中の『石見の合戦』中の益田兼見の原稿の中でも同様な記述があり、言葉を失ってしまったが、同じ記述を再び見て驚いたどころではない衝撃を受けた。
 現在から二五年前に「益田氏惣領制の再検討」との報告を島根県中世史研究会で行い、その時点で解決済みの問題である。龍雲寺蔵三隅氏系図の兼世に関する記述は文書で確認できる。次郎兼世が惣領であるが、これは太郎兼長から次郎兼久へ惣領が移ったためである。兼胤も次郎であった。道忍兼弘が孫太郎であったのは、太郎兼長の娘を母としたからであるが、兼世で本来の次郎に戻った。
 三隅氏系図には兼世の男子として次郎太郎兼行、弥次郎兼直、又三郎兼氏、助次郎兼利の四人が記されている。建武元年正月日吉川経明軍忠状によると、一三日には「益田弥二郎」とともに高津郷小山城を攻めているが、弥二郎=嫡子兼直(忠)である。建武三年七月二一日に三隅二郎入道信性ら南朝方が益田城を攻撃した際に、幕府側の中心として二郎太郎兼行と舎弟三郎(兼氏)がみえる。兼行は系図の記載順のように長子であったと考えられる。建武二年二月一二日に益田本郷等を本領安堵した後醍醐天皇綸旨の宛所は切り取られているが、そのわずかな墨跡から、三隅次郎入道ではなく、益田次郎宛と考えられる。
 兼世の嫡子は弥次郎兼直であり、兼利が助次郎なのは兄兼直の養子・後継者となったためである。この兼直が貞和六年岩田胤時軍忠状に証判を加えた「兼忠」である。同一人物が系図などで同音の別字で記されるのはよくあることである。後に、足利直冬との関係で「忠」から「直」に変更した可能性はあるが、いずれにせよ「かねただ」である(以下は兼忠で統一)。この人物に関する史料がこれ以降残っていないことが誤解が生ずる原因であるが、正しい解釈をすることはさほど難しい問題ではない。ただし、自分の頭を使って考えればという条件付であるが。

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