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2018年6月 7日 (木)

待賢門院領の伝領2

 円勝寺落慶供養が行われたのは大治三年(一一二八)三月であるが、八月にはすでに寄進(の申出が)されていた多くの私領候補地から、藤原永範の私領の券契が選び出され、翌年には待賢門院庁牒によって正式に円勝寺領として立券を遂げたのが遠江国質侶庄であった(野口氏論文による)。儒者として有名な永範は、摂関家家司として保元二年正月から応保元年正月まで石見守(知行国主藤原忠通)を務める一方で、保延五年一二月に前任者の死亡により文章博士となってことを契機に後白河院から認められ、長寛二年正月には大宰府大弐となり、藤原南家出身の儒者としては異例の公卿に進んだ人物である。ただし、二七才であった大治三年の時点では目立った存在ではなく、寄進の背景として野口氏は永範の妻の父大江行重が白河院庁主典代であったことから(、永範の妻ないしは娘が待賢門院女房ではなかったかとする。また永範一家と待賢門院の同母兄実能を祖とする徳大寺氏との間のつながりが想定できる(仁木夏美氏「藤原永範考」)。
 円勝寺落慶供養の翌年に石見守となった卜部兼仲は石見国との関係を有していたというよりも、待賢門院との関係から院の分国となったと思われる石見国の経営手腕を期待されたのではないか。弟基仲、子仲遠の活動時期を勘案すると兼仲は大治四年の時点で三〇才前後であったと考えられる。
 兼仲の後任藤原宗長の系譜上の位置づけは不明としていたが、自作の国司関係系図で確認すると藤原宗兼の子で、平頼盛の正室となった宗子(池禅尼)の兄弟であった。宗兼の姉妹である宗子は堀河天皇の女官を務め、その孫崇徳天皇の乳母を務めている。
 宗兼は保安二年(一一二一)に和泉守に補任され、同五年初めには近江守に遷任し、大治五年一〇月時点でも現任が確認できるが、翌天承元年(一一三一)二月には後任の藤原顕輔が補任された。一方で同年一一月には和泉守として「某宗兼」の現任が確認できるので、宗兼は近江守から和泉守に遷任したと思われる。その後しばらく和泉守に関する情報はなく、次にみえるのが保延三年(一一三七)末の藤原宗長の和泉守から石見守への遷任である。以上のことから、和泉守宗兼の後任が子の宗長であり、宗長の後任が卜部兼仲であった。
 待賢門院が院号宣下されるのは子である崇徳が五才で即位した翌年の天治元年(一一二四)一一月であり宗兼が和泉守となった時点では院分国であったわけではないが、姉妹が崇徳の乳母となったのを契機に待賢門院との関係が強まり、二度目の和泉守となった時点では和泉国は院分国となり、次いでその子宗長が和泉守を継承し、次いで石見国守卜部兼仲と入れ替わったのではないか。そして宗長が最後に国守を務めた下野国は前任者が崇徳の近臣藤原資憲であった。宗長と資憲の関係としては、宗長の姉妹である池禅尼の母は藤原有信の娘であり、資憲の父は有信の嫡子実光である。池禅尼は崇徳の子重仁の乳母で、その夫平忠盛は待賢門院別当であった。
 以上、一時期ではあるが、石見国、和泉国、下野国が待賢門院の分国であった可能性は高いのではないか。そして卜部兼仲が石見国在任中に長野庄の寄進がなされた場合、その規模は最終的なものとは異なっていた可能性も高い。

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