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2018年6月 4日 (月)

長野庄と保元の乱2

 後白河院政期の治承三年八月には摂関家氏長者九条兼実が梅宮領宇多庄の畠所当の免除を申請したことに対して、朝廷からこれを許可する意向が伝えられている。八条院領となっていた宇多庄の実質的支配者はなお摂関家氏長者であったことがわかる。次いで元暦元年一二月には、兼実が卜部基忠に代えて仲遠を梅宮社務職に補任したのに対して、後白河院から、仲遠への補任状が兼実に返され、梅宮領宇多庄の庄務権も仲遠に与えよとの意見が示された。これにより兼実は庄務を加えて補任状を再提出している。この事件のきっかけは、梅宮社正預の基忠(元忠)に「不快事」があったことにより、後白河院が基忠の解任と権預であった仲遠への交替を求めたことであったが、鳥羽院の時代よりも梅宮社務と宇多庄務に対する院の干渉が強まっていることがわかるが、なお両方とも摂関家氏長者が権限を有していた。基忠は基仲の関係者であろうが、これにかわって兼仲の子仲遠が補任されたことにより「仲」を名乗る人々が梅宮社卜部氏の中心となったと思われる。兼仲自身については永万元年六月の神祇官諸社年貢注文(永万文書、平安遺文三三五八)には、梅宮社が藁二〇〇束・薪二〇〇束を負担することになっていたが、兼仲が年預の時に免除されたことが記されており、頼長や鳥羽院との関係により実現したのではないか。
 西田氏により、卜部兼仲が待賢門院侍所所司で民部丞に任じられており、待賢門院御産の祈祷を行った成功により、大治四年に石見守に補任されたことが明らかにされた。それは兼仲が梅宮社務に関わる人物であったからであり、摂関家氏長者との間により強い関係を持っていた。兄忠通に代わって摂関家氏長者となった頼長は、待賢門院の遺言と鳥羽院の意向も踏まえて兼仲・基仲兄弟に、橘氏氏院である学官院を作ることを条件に、梅宮社務とともに梅宮社領宇多庄務を与えた。
 西田氏が明らかとしたように、この兼仲の子孫であろう掃部助仲広が長野庄飯多郷地頭益田兼季を訴え、応安七年には卜部仲光(院宣の奏者藤原仲光とは花押が異なり別人)長野庄惣政所職の安堵の奉書を発給し、応仁二年には粟田社領長野庄豊田郷領家分の一部が領家蔵人太郎仲尭に安堵されている。ただし、西田氏も長野庄領家としての権益が分割されていたことを指摘しているように、「惣政所職」といっても長野庄内の他の所領の政所職を支配するようなものではなくなっている。長野庄そのものが、大家庄と同様に多くの所領の集合体であり、益田庄における益田本郷のような核といえるようなものはないのである。

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