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2018年6月16日 (土)

連阿・兼直・是阿2

 「丸毛家畧系」では兼幸の母は波多(田)兼国の娘亀夜叉だと記され、父兼直は波多家領宇地を分与されたとするが、益田氏系図には兼胤の子兼国までしか記しておらず、兼国の姉妹が宇地村地頭であったと記す。波田氏の系図では兼国の子としては兼能のみを記し、宇地村地頭については建武五年二月一七日に尼是阿が孫である次郎三郎兼里を養子として譲っている。波田兼国は益田氏惣領兼弘(道忍)の弟であり、兼幸が兼国の孫であるとすると、兼弘の嫡子で益田氏惣領となった兼世との間に一世代のズレが生じてしまう。よって、宇地村地頭であったのは兼国の姉妹であり、この女性が是阿であり丸毛兼直の妻であったと考えられる。
久留島典子氏は以下の様に述べられた。
 原屋家文書にあるべき文書の一部が益田家文書に入っているということは、両者の関係の深さを示している。道忍避状が宇地村地頭職についても出されていることから、尼是阿も兼長後家尼阿忍から宇地村地頭職を譲られたのだと推測でき、兼見と同じ一族のものと考えられる。
 西田友広氏は山道郷を所領する兼久が兄兼長の死により益田本郷と益田氏惣領を得たし、兼久の子兼弘(道忍)が北山道郷内の宇地村を是阿に去渡していることから、道忍は山道郷を本拠としていたと考えられると述べられたが、益田本郷を得た兼久の子で益田氏惣領であった道忍がなぜ山道郷を本拠としたかについては述べられなかった。一方で、一旦は祖母阿忍から伊甘郷を譲られた道忍が祖母敵対により、伊甘郷を悔返えされたことに関連して、道忍が御神本氏一族の氏神である臼口(御神本)大明神を伊甘郷から東山道郷に遷したとされた。

 西田氏は山道郷、北山道郷、東山道郷との表記を使い分けているが、その正確な理解が必要である。なぜなら、北山道郷と東山道郷の間に益田本郷があり、両者の領域は連続していないのである。「益田家系図写」(山口県文書館蔵)は、その写された時期は新しいが、その記載内容には益田氏を考える重要な記載がいくつも含まれている。初代国兼と二代兼真の記載には信頼性に問題があるのに対して、三代兼栄から七代兼長に関する記載には信憑性が高い。その背景には、二代目と三代目の間には惣領の交替などの断絶があるためであろう。
 同系図によれば、惣領兼季段階の所領は、那賀郡阿部郷が欠落していることを除けば、建仁三年に兼季が幕府に安堵を申請したそのものであり、益田庄内益田郷(益田本郷)はみえても、山道郷はみえない。山道郷は益田本郷に含まれていたのである。文書そのものは失われ、南北朝期にその復元が行われたが、その際に系図の記載が利用されたと思われる。

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