koewokiku(HPへ)

« 藤原資憲関係史料1 | トップページ | 藤原資憲関係史料3 »

2018年6月23日 (土)

藤原資憲関係史料2

 (2)家長は家保の子で、鳥羽院庁と崇徳院庁の両方に関わり、保元の乱では崇徳方となったとされる。鳥羽の寵臣となった家成より年長であったと思われる。(3)顕親は村上源氏源師房の曾孫雅俊の子でこの後には院近臣の指定席である播磨守となっている。伯母である師子は関白藤原忠通を産んでいる。前任の播磨守であった平忠盛が仁平元年(一一五一)に子教盛を淡路守とするために辞したことをうけて播磨国は忠通の知行国となり、忠通の家司であった顕親が国守に補任された。(4)の成雅は師房の曾孫信雅の子で顕親の従兄弟となるが、忠通の弟頼長との男色関係でも知られた人物である。五味文彦氏によれば知行国主忠実(忠通・頼長の父)のもとで尾張国・近江守・安芸守を務めている。
(6)雅国も師房の曾孫国信の子で前二人の従兄弟であり、知行国主忠実のもとで安芸守を務め、その子国保が忠実のもとで石見守と対馬守になっている。
 (5)朝隆は勧修寺流藤原為房の子で、顕隆の弟であるが母親が違い年が離れていたこともあって顕隆の娘を室としている。この時点では子朝方を国守として淡路国知行国主でもあった。摂関家司であるとともに、鳥羽院の近臣でもあった。後には同母兄親隆とともに美福門院庁の別当となる。『兵範記』の筆者(7)藤原信範は有名な忠実・忠通父子の家司であるが、その一方で鳥羽院庁の判官を務め、その子八条院庁にも関わっていく。
 (8)通重は持明院通基の子で、久安三年末までは待賢門院とその娘上西門院の分国であった能登国守であった。通重の母は待賢門院女官で上西門院乳母となっているが、本人は待賢門院に仕える役人であった。久安四年に上西門院因幡を妻とする同母弟基家(11)に能登守を交替して、自らは丹波守に遷任していた。丹波国もこの時点では上西門院の分国であった可能性が高い。徳大寺公能の娘を妻とし、久安三年には一条能保(源頼朝の同母姉妹坊門姫を妻とする)が生まれたが、通重は同五年に死亡している。
 問題となるのが(9)光隆であり、懸案の杵築大社遷宮の終了をうけて久安二年一二月に出雲守から但馬守に遷任していた。出雲守の後任は二度目の就任となった藤原経隆で、白河・鳥羽両院の近臣であった基隆の子で、忠隆の弟であった。基隆・忠隆父子もまた待賢門院庁の役人であった。経隆も康治三年(一一四三)正月以降は鳥羽院庁下文の署判者としてみえている。問題は久安四年一〇月の「光隆」で、この扱いに迷って作業が停止してしまった。短期的に光隆が出雲守に復帰したと解釈することも物理的には可能だが、光隆と経隆がそれぞれ但馬守と出雲守を重任していることからすると、「光隆」は「経隆」の誤記とすべきとの結論に達した。これに二日間要した.

« 藤原資憲関係史料1 | トップページ | 藤原資憲関係史料3 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 藤原資憲関係史料2:

« 藤原資憲関係史料1 | トップページ | 藤原資憲関係史料3 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ