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2018年6月16日 (土)

連阿・兼直・是阿1

 正平一〇年(一三五五)三月一六日沙弥道元(丸毛彦三郎兼幸)譲状によると、兼幸は丸毛別符を父名宣(兼直)から譲られ、長野庄内安富郷を祖母連阿から譲られたとする。元弘三年(一三三三)九月一四日石見国宣により丸毛彦三郎兼幸が当知行安堵されたのは、長野庄内安富郷と丸毛別符内堀越村渋谷名であった。苗字の地である丸毛別符は一分地頭でしかないが、一方の安富郷は惣領地頭であった。
 丸毛氏は益田兼季の子兼忠が丸毛別符を譲られたことから始まるが、「丸毛家畧系」(萩博物館蔵周布氏系図所収)には兼忠の子として兼信と兼頼が記されている。兼頼は小笠原氏から益田兼長の養子となったが、兼長の死により弟兼久の養子になった。益田氏系図に兼久の子として兼頼がみえるのはそのためである。ところが、兼久の子兼胤の時期に益田氏領の大半が没収されてしまったため、兼頼は丸毛兼忠の養子となった。
 兼忠の実子兼信には嫡子兼氏と庶子兼直があり、兼氏領は兼親が継承した。兼幸は兼直の子としてその所領を譲られた。弟兼顕もおり、兼直領も分割されたと思われる。兼幸領が丸毛別符内堀越村渋谷名であったのはそのためであった。
 安富郷は益田兼季の遺領が配分された際に弟周布兼定領となり、兼定の死に際して継子(後室の連子)である幸寿に譲られた。この相続に惣領兼時とその母聖阿弥陀仏が介入し、兼定領のうち周布郷と安富郷を兼時の次子松房(兼久)に譲られようとしたが、後の裁判で、兼定の養子となった弟兼政と幸寿の相続が認められた。ただし、兼時領のうち長野庄内飯田郷と迩摩郡宅野別符を譲られた兼久と幸寿が結婚するという形で調整がなされた。次いで、兼時嫡子で益田氏惣領を継承していた兼長が後継男子がないまま死亡したため、弟兼久が益田氏惣領となり、兼長領の多くを相続した。
 周布氏系図では幸寿は自らの所領を次男彦三郎兼幸に譲り、別家として安富家を立てさせたとする。幸寿の「幸」にちなんで「兼幸」と名乗ったのは確かであるが、幸寿と兼幸には二ないしは三世代の差があり、且つ兼幸が祖母連阿から安富郷を譲られていることを勘案すると、幸寿から連阿を経由して兼幸が安富郷を譲られたと思われる。益田氏系図には兼久と幸寿の子としては三人の男子のみを記すが、女子として連阿がいたと思われる。周布氏系図によると幸寿は正和二年(一三一三)に死亡しているが、兼幸は益田氏惣領兼世と活動時期が重なっており、一四世紀初めには誕生していたと考えられる。これが周布系図が安富郷を譲られた兼幸を幸寿の子であるかのように記した理由であろう。

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