koewokiku(HPへ)

« 上西門院の分国 | トップページ | 長野庄と保元の乱2 »

2018年6月 4日 (月)

長野庄と保元の乱1

 本日、西田友広氏より「中世前期の石見国と益田氏」の恵贈を受けた。なお精読の必要はあるが、一読した時点での検討結果を以下に述べたい。
 最も注目すべき点は、長野庄が大治四年から二期八年石見守を務めた①卜部仲兼によって、本家待賢門院、領家兼仲の庄園として成立し、②待賢門院からその息子である後白河院に相伝され、③後白河院によって粟田宮社領に寄進されたことを明らかにしたことである。このうち③についてはその通りであると思った。ただし、待賢門院領のほとんどは統子内親王(上西門院)が継承している点(なぜ後白河院が継承したのか)と保元の乱の影響を全く考慮されていないという点が疑問である。西田氏は兼仲の子として文徳源氏源資遠の養子または猶子となった仲頼をあげるが、建久二年に後白河院の意向により石見守に補任された卜部仲遠(「給石州」とあり、その経歴からすると知行国主であろう)との関係は不明であるとした。以下で検討したい。
 建久二年に石見守に補任された卜部仲遠は橘氏の氏神梅宮社(山城国、摂関家氏長者が支配)の社務として八条院領和泉国宇多庄の支配に当たっていたが、その一方では「後白川院北面歴名」に「前下野守」としてみえているように、後白河院に奉仕していた。仁安三年から安元元年にかけては二期八年下野守を務めていた。『台記』久安三年五月二七日条に「仲遠 兼仲子」とあり、『玉葉』安元元年九月六日条には下野守卜部仲遠が穀倉院別当に補任されたことについて、九条兼実は、院に祗候していたためだが、前代未聞の人事としている。
 宇多庄は本来は橘氏の氏長者が支配する庄園であったが、橘氏氏神梅宮社の任免権を有する摂関家氏長者藤原頼長は、橘氏氏院である学官院を再建することを条件に、本来の支配者であった橘氏氏長者に代わって兼仲・基仲兄弟に梅宮社領宇多庄の支配権を認めた(龍野加代子氏「八条院の伝領過程をめぐって」、法政史学四九)。その際に、鳥羽院の意見を求めたところ、院からは待賢門院が死亡する際に卜部兼仲に対して宇多庄を与えることを遺言したとして、卜部兼仲の弟基仲に庄務を行わせることに賛意を表した。これを受けて頼長が基仲に宇多庄務を執行せよと命じた。兼仲や基仲は摂関家に奉仕する一方で、院の北面として重要な役割を果たしており、それが兼仲の子兼遠が建久二年に石見を与えられる背景となった(この段落の記事の内容は不正確なので、訂正版を参照のこと)。
 安元二年二月日八条院領目録に和泉国宇多勅旨がみえており、梅宮社領宇多庄が八条院領宇多庄となっている。その背景について龍野氏は史料が無く不明であるとするが、摂関家氏長者であった頼長が崇徳院とともに敗北した保元の乱があったことは確実であろう。

« 上西門院の分国 | トップページ | 長野庄と保元の乱2 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 長野庄と保元の乱1:

« 上西門院の分国 | トップページ | 長野庄と保元の乱2 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ