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2018年6月 4日 (月)

益田氏研究の課題1

 前回の補足の前に、今回の西田氏の論文の中で早急に再検討していただきたい点を二点記す。
 一つは惣領兼長が小笠原氏からの養子を除けば男子がないまま死亡したことにより、惣領が益田庄内山道郷を所領としていた弟兼久に移動したとされる部分である。兼久の孫である道忍については山道孫太郎と呼ばれたように、山道郷を所領としていたが、これは兼久の子で道忍の父である兼胤が所領の大半を没収されたからである。兼長の遺領で後家阿忍に譲られた伊甘郷と弥冨名(こちらは一部か)は没収の対象とはならなかった。阿忍が孫である道忍に伊甘郷を一度は譲ろうとしたのはそのためであった。その後、預けた文書を抑留するなどの問題から不信感を持ち、悔い返したのである。しかし、阿忍の曾孫となる道忍の子については別であり、最終的に阿忍は孫と曾孫に所領を譲った。伊甘郷惣領地頭職は孫の一人である鳥居女房(安濃郡鳥居郷を支配する一族の男性に嫁いでいた)に譲った。
 問題の兼久については周布氏系図中の兼久室幸寿の項に兼久は飯田・宅野両郷地頭職を譲られていたが、兄兼長の死により惣領となったことが記されており、その内容には矛盾はない。長野庄内の益田氏領であった安富名は庶子周布氏に譲られ、飯多郷は同じく庶子領とされた。兼久が山道郷を所領としたのは兄兼長の死後である。兼久の嫡子兼胤が所領を没収されたことは龍雲寺三隅氏系図にしか記されていないが、総合的にみると事実であったと判断できる。
 兼久領であった長野庄内飯田郷は益田兼季が掃部助仲広との裁判で益田氏領と認められていたが、本来、長野庄が成立した時点で益田氏はその所領を得ていなかった可能性が大きい。この点は、長野庄成立時に益田氏が、石見国衙で鎌倉初期のような圧倒的な勢力を持っていなかったことを示すものである。これが保元の乱で藤原頼長・源雅国の影響を受けた勢力が没落し、益田氏の相対的地位が上昇し、さらに治承・寿永の乱を生き残った一族が平家方となって没落した人々の闕所地を獲得して、広大な所領の支配を認められた。
 源義仲は平家方が多い中、東部の河合氏を押領使として国外の戦闘に動員したが、河合氏は留守中に国内の所領の押領の危険性が生じ、これに対処するため無断で帰国せざるを得なかった。それほどに石見国内には平家方が多かったのである。また、益田氏関係系図では国兼の子兼実(ないしは真)がおり、「案主大夫」ないしは「安主大夫」であったことは共通しており、これを『源平盛衰記』の「案主大夫」に比定するのは自然なものであり、批判されるべきはこれを全く種類の異なる地名「阿須那」ではないかとする長村祥知氏のずさんな見解である。公式を機械的に当てはめるからこのような苦しい推定をせざるをえなくなったのである。

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