koewokiku(HPへ)

« 塩冶高貞謀叛事件4 | トップページ | 国造譲状と造営関係史料2 »

2018年5月14日 (月)

国造譲状と造営関係史料1

 建築史の専門家を中心に標記の問題が分析されているが、譲状を最初に本格的に分析した松薗氏の論文でも、譲状の真偽すら検討せずに述べられており、スタート地点から誤った。毛利氏の鎌倉・南北朝期の譲状の分析についても同様の状況がみられ、研究の質が問われている。国造家の正しい譲状は弘長二年一二月三日出雲義孝譲状からである。ただし、これ以降のものにも後述のように偽文書(後から作り直したものとの意味である)が含まれる。
 義孝以前の譲状が偽作された背景には、領家との裁判、神主職をめぐる対立とともに、国造家内部での相続争いも絡んでおり、それをふまえた分析が必要である。内部の争いとは宗孝流とそれ以前の国造家との対立と、孝房の子である孝綱系と政孝系の争いである。それが一段落したことで、今度は国造家の分立が生じた。
 義孝譲状に記された「次第調度之証文」の中に造営史料は含まれていたとみるべきである。宝治二年の遷宮にいたる過程で造営史料、具体的には建久二年の裁判に際し、過去の記録を抜き出したもの(治暦・天永・久安旧記)がものいってライバルを押しのけて神主職を安定的に確保した。本来は神主の権限を分割してこれを牽制するために創設された権検校についても、有名無実化し、領家の補任権は失われた。この過程で国造家のものとなり、現在は平岡家文書として残っている。宝治の造営を主導したことで新たな造営記録を国造家が独占的に入手した。本来は杵築社政所で管理すべきであるが、ライバルが神主になった際には、その提出命令をサボタージュし、造営が遅れる中、文永一二年に義孝は領家から神主に補任された。領家は主導権を確保したかったが、朝廷(院)・知行国主・幕府から圧力がかかり、妥協せざるを得なかった。
 次いで、これら造営史料を所持することが出雲真高・実政父子との神主をめぐる第二ラウンドの対立に勝利する最大の要因となった。徳治二年(一三〇七)一二月五日に泰孝が作成した譲状には御造営遷宮日記・文書以下調度の証文とあり、これを義孝は次第調度之証文と呼んでいた。これに遡る永仁五年に神主職に関する出雲実政の越訴が退けられていた。この時点の領家は、過去の状況には不案内な三条廊御方であり、幕府の申し入れを受け入れざるを得なかった。

 

« 塩冶高貞謀叛事件4 | トップページ | 国造譲状と造営関係史料2 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 国造譲状と造営関係史料1:

« 塩冶高貞謀叛事件4 | トップページ | 国造譲状と造営関係史料2 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ