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2018年5月14日 (月)

国造譲状と造営関係史料10

 最後に南北朝期の譲状から御下文以上に造営旧記・差図が重要となったのは、それまではライバルとの神主をめぐる対立に勝利するため、とりわけ幕府関係の御下文が必要であったので、これを偽作してライバル並びに領家との対立に勝利した。ところがその後、国造家の分立という事態が生まれたため、①②③と差図を所持する北島家はこれもまた自らの正当性を示すものとして利用した。それに対抗するため、千家側は、宝治の造営に関する史料しか所持しなかったため、自らの記憶に基づき、北島家に対抗して差図を作成した。
 こうした両家の対立も時間が経過したこと、戦国大名や国人、末社であった日御崎社など外部との対立が生じたこと、さらにはながらく正殿造営ができなかったことで、二つの国造家は既成事実となり、相手も所持する造営旧記の持つ重みは低下したと思われる。
 ながながと、脱線しつつ述べたが、建築史家にしめすべき根拠ある情報を確立しなければならないが、発掘された遺構に基づく分析でも、研究者により見解が違い、山岸常人氏のように、宝治の造営以前の本殿の規模も共通であったと考える必要はないとの見解をみると、唖然としてしまう。少なくとも過去の記録に基づき造営をしており、一旦は別の基準で造営をせよとの方針が出されたこともあったが、国造の所持する史料に基づき作成することに変更されている。少なくとも天仁・久安・建久・宝治年間に造営された本殿は八丈であったと思われる。天仁に先立つ治暦については、天仁の造営で規模の拡大が図られたため、材木が不足し、国外からも調達するとの方法が選ばれた可能性があるという意味で、とりあえず除いておいた。
 細部については今後も検討し見直す可能性もあるが、横道にそれながらも標記の問題に関する大枠についてまとめてみた。

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