koewokiku(HPへ)

« 毛利北条氏について2 | トップページ | 都の雨に »

2018年5月19日 (土)

吉田庄地頭美乃判官全元

 建武政権における地頭職の安堵、没収、給与には恣意的な面が見られるが、毛利貞親の謀叛への関与疑惑により闕所となった安芸国吉田庄地頭職を与えられたのは美乃判官全元という人物であった。何故か「阿野全成―時元」との関係があると思い調べてみたが、情報は得られなかった。後醍醐天皇の寵姫として知られる阿野廉子も、阿野氏の女系の流れを継承するものとされる。三条公教の子滋野井実国の養子公佐(実父は藤原成親)と阿野全成の娘との間に生まれた実直が公家の阿野氏の祖となる。これとは別に阿野氏の流れを引く四条氏がいたことも「阿野庄長寿寺について」で述べた。
 実直の孫公廉は公卿にはなれなかったが、その子実廉は妹廉子が後醍醐の後宮に入ったことで、嘉暦三年(一三二八)には非参議三位となった。文保二年(一三一八)年、実廉の子季継は備後国神崎庄地頭として高野山三昧院内遍照院雑掌から訴えられて裁判が続いていたが、下地中分をするとの和与が成立している。神崎庄は文永年間頃には長井泰茂が領家兼地頭であったが、正和二年(一三一三)九月一四日には院宣により領家職が高野山金剛峯寺三昧院に寄進されている。長井泰茂の子孫が両職を没収され、地頭職は後醍醐天皇との関係から阿野氏に与えられたと思われる。廉子は正安三年(一三〇一)の生まれで、元応二年(一三一九)に一九歳で上臈として入侍し、間もなく寵愛を受けたとされる。その後、阿野季継が神崎庄地頭職を与えられたのであろう。
 話を全元に戻すと、武家の阿野氏が公家の阿野氏に奉仕していた可能性は大きいのではないか。そして史料をよくみると、全元は「花山院家祗候人」とある。花山院家といえば、毛利氏と後醍醐天皇で述べたように、毛利季光の娘で父の死後、兄弟の師継とともに花山院家で育ち、師継の室となり師信を生んだ女性がいた。後醍醐の母五辻忠子は花山院師信の養女として後宇多院の後宮に入っていた。美乃判官全元は廉子の実家である阿野家との関係で、後醍醐の母の養家である花山院家の祗候人となり、建武元年に吉田庄地頭職が闕所となった際に、毛利家の親戚である花山院家との関係で、これを与えられたのではないか。元春申状にも全元が「申給う」と記されており、働きかけの結果与えられたものであろう。そんなに無理な推論ではない気がするが、どうであろうか。
 なお河合正治氏は『安芸 毛利一族』の中で、全元について、後醍醐天皇の寵臣で、吉田庄領家である花山院家の祗候人であったと述べているが、この記述の根拠(特に領家)については今のところ確認していない。寵臣は花山院家、全元のいずれにかかる修飾語であろうか。 

« 毛利北条氏について2 | トップページ | 都の雨に »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 吉田庄地頭美乃判官全元:

« 毛利北条氏について2 | トップページ | 都の雨に »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ