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2018年5月 9日 (水)

松殿兼嗣の母補足

 前回は大社町史を見ながら書いたが、井上氏の「中世出雲国一宮杵築大社と荘園制支配」の抜刷がみえず、不安があったので、県立図書館で確認した。井上氏なりに慎重に検討されていることがわかったが、当方が疑問に思ったのが文暦二年の領家の花押二点はそれまでの家隆の花押と違うのではないかという点である。『花押かがみ』は井上氏の比定に基づき、総て家隆に比定している。また、井上氏の論文では貞応三年六月一一日袖判御教書の花押は、雅隆と家隆のいずれか決めがたいと述べられていたが、これは雅隆で問題ない。『花押かがみ』もそうなっている。なにより最後の終わり方が雅隆と家隆では明確に違うのである。そうしてみると、文暦二年の花押は家隆よりも雅隆に似ているのである。雅隆の花押として最後に残っている貞応三年の花押は家隆とは明確に違い、文暦二年の花押とは類似点がかなりある。
 井上氏は文暦二年時点で重隆は公卿になっておらず、御教書を発給している人物は三位以上の公卿であるとして、重隆の可能性を排除されたようだが、公卿以外でも御教書を出している例はある(北条氏領については袖判と家臣による執達如件の文書が多数ある)。公家の関係では摂関家とそれに準ずる大臣となる有力な家を除けば、領家としての発給文書が雅隆と家隆のような非参議公卿で残っているのが極めて希である。袖判で下文形式で預所が署判を加えているものならば、多くはないが存在する(日本史大事典:四位以上なら問題ない。正五位下小槻淳方の文書あり)。
 雅隆は七八才で死亡する直前まで領家を務めていたが、家隆は出家して松殿忠房の勧めに従って天王寺に入り、その直後に死亡している。松殿忠房室が雅隆の娘とすると、家隆が出家する一三年前には雅隆は死亡しており、家隆が三五才年下の忠房の勧めで出家する理由が理解できない。それが忠房の室が重隆の娘であれば、重隆は家隆出家の八年後まで健在であり、家隆が甥で、杵築社領家の立場を譲った重隆を介して、その義父である忠房の勧めに従うことは十分考えられる。
 以上補足したが、最大の疑問は花押の人物比定であった。抜刷を確認したのは嘉禄二年の二通の文書にみえる「かすさのかうの殿」がどのような形で記されていたかを確認するためであった。大社町史資料編の当該文書には何故か記されていなかった。前回述べたように、家隆が上総守(介)を務めてから時間が経過し、後に同じく上総介であり、死後もその官職で呼ばれた重隆ではないかと思ったためであったが、うち一通には「かつさのかうの殿御教書、かうろく二年九月二日たいらい」と記されており、文書作成に近い時期に記された可能性が高く、やはり家隆かと思わされたが、果たしてどうであろうか(後で記されたなら重隆と誤解したか)。

 

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