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2018年5月14日 (月)

国造譲状と造営関係史料3

 神主職をめぐっては領家雑掌側が事実に基づき主張したのに対して国造側は偽文書に基づき主張した。結果的には永仁五年の判決を踏襲した判断が、正和三年に出されたようである。ただしそれは神主に限定されており、領家兼嗣は同年七月一六日には虎一丸を三崎社検校職に補任している。残されたのは杵築社領をめぐる領家と国造の争いであったが、国造側が領家側から所領の支配権を与えられたと主張したので、幕府はその証拠の提出を求めたが、その後の状況は不明である。文保元年には領家兼嗣が死亡し、その跡を継承したと思われる通嗣については正安二年(一三〇〇)には公卿となっているが、正中二年以降、公卿補任から姿を消し、その動向を追うことができなくなる。その時点で嫡子忠嗣は二九歳で、公卿となったのは四四歳となった暦応三年(一三四〇)であった。
 元亨三年(一三二三)には杵築社領の本家職は後醍醐天皇から永嘉門院に渡された。永嘉門院は宗尊親王の遺児で、元の杵築社本家であった承明門院が宗尊親王の曾祖母であり、永嘉門院は承明門院が残した土御門殿で育てられた。永嘉門院は後二条天皇の遺児(邦良)を育てていたが、その母は後醍醐天皇の母五辻忠子の姪宗子であった。後二条は後宇多の後継者であったが、早世し、そのために弟後醍醐が一期分として天皇となった。松殿兼嗣は五辻氏を介して後宇多・後醍醐に接近し、その結果、亀山上皇の死とともに領家に復帰した。その見返りとして、兼嗣は宗子の兄親氏に千家村を譲っている。この永嘉門院も元徳三年(一三二九)に死亡し、杵築社領は再び後醍醐領となったと思われる。
 配流先の隠岐から帰還し政権に復帰した後醍醐天皇のもとで、元弘三年一二月に一宮の本家と領家は停止されたが、まもなく撤回されたようである。それを受けて領家雑掌孝助が正和三年の判決に対する越訴を提起した。前回決着した神主職を含めて審議が開始されたが、今回は前回のような鎌倉幕府による引級は期待できず、国造側は厳しい状況が予想されたが、動乱が始まったこともあり、その後の展開は不明である。

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