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2018年5月 3日 (木)

京極家譜から

 京極家譜に土屋(小芦)氏が明徳の乱で没落することが記されているので、史料編纂所に所蔵される写本で原文を確認した。丸亀藩主京極氏(松江藩主の子孫)が残していた系図(明治四年に家督を相続した高徳が提出)で、他の佐々木氏系図にはみられない詳細な記述もみられる。
 佐々木高綱が乃木善光寺の前身となる御堂を建立したのは建久元年(一一九〇)二月一五日だとし、当時は出雲守護であったとする。当ブログは藤原朝方のもとで出雲国目代を務めていた東国御家人兵衞尉政綱が出雲守護(名称については問題としない)であったとの立場であり、政綱が義経との関係で目代を解任された後の守護が佐々木高綱であったのではないか。建久二年には伯耆国大山寺に等身地蔵を建立し、田三町を寄進している(大山寺縁起)。
 兄京極高光が応永二〇年(一四一三)に三九才で死亡したが時点で嫡子持高は一三才であり、二八才であった叔父高数(一般的には生年は不詳とされる)が家督を代行し、持高が二〇才となった応永二七年冬に持高が名実ともに京極氏の当主となった。持高は後継者がないまま永享一一年(一四三九)正月に三九才で死亡し、再び叔父高数が家督を代行した。ただし、二年後の嘉吉の乱で将軍義教とともに「犬死」し、持高の弟持清が継承した。永享一〇年には持高が鎌倉公方足利持氏鎮圧のため出兵し、翌年には兄の死により服喪の状態であった三三才の弟持清が出兵したとする。持清の出家は寛正五年であったが、実際には文明二年に死亡するまで実権を持っていた。
 系図には尼子氏初代高久について、祖父道誉から譲られていた近江国甲良庄尼子郷に加えて、明徳の乱による恩賞で父高詮が出雲守護と旧山名氏領などの闕所地を得たことにともない、明徳三年六月一一日には出雲国出雲郡内千巻北別府を与えられ、次いで七月五日には大原郡近松庄を与えられたとする。後者の近松庄に関する高詮安堵状(書状)は伊予佐々木文書として国会図書館が所蔵し、現在ではカラーの画像をネット上で閲覧できる。宛名にみえる「尼子六郎左衛門尉」が高久で、尼子氏惣領は「六郎」を名乗り、庶子である出雲尼子氏当主は「四郎」を名乗る。「伊予佐々木氏系図」はある時期には丸亀藩主の関係者が所持していた可能性が高い。この時期に宍道氏の祖となる秀益も所領を与えられたのだろう。
 明徳三年に出雲国に入った京極高詮は六月八日には杵築大社に出東郡千家・北島両村を寄進している。こちらは寄進状なので書状ではなく直状形式である。古代の「出雲郡」が「出東郡」に変わったことを示す初見史料だとされるが、京極家譜によれば直前の高久宛の文書では「出雲郡千巻北別府」と表記されていた。系図の引用ではあるが、間違える可能性は低く、両立するように考えれば、明徳三年から出雲国支配を開始する守護京極氏が従来の出雲郡を出東郡に変更したのではないか(誤記に訂正する)。鎌倉・南北朝期の文書で郡名が記されているものはほとんどないが、明徳年間以降に急に増加してくる。京極氏はその支配開始の時点から郡奉行を設置した可能性も高まっており、実態把握と体制整備の中での変更ではないか。背景としては斐伊川の流れの中心が日本海への西流から宍道湖への東流に変わりつつあり、それに伴い出雲郡の領域が減少し、西側は神門郡に編入された。状況の変化は以前から始まっていたが、体制整備の一環としての変更であったと思われる。前守護山名満幸は行方をくらましており、なおその与党も国内にはいたと思われる。

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