koewokiku(HPへ)

« 九条家領美談庄の成立1 | トップページ | 貞永二年正月の除目1 »

2018年5月 5日 (土)

九条家領美談庄の成立2

 林木庄預所に補任された長兼の経歴をみると、九条家との関係としては文治五年五月一五日に兼実の娘任子が後鳥羽天皇のもとに入内することが決まった際に、兼実の家司としてみえている。建久元年四月二六日には任子の中宮権大進に補任されている。次いで建仁二年(一二〇一)末に藤原氏の大学別曹である勧学院の別当となっている。翌年に九条兼実の子良通が氏長者となり、元久三年三月に三八才で急死するまでその地位にあった。長兼の母も信西入道の娘で、父長方とともに学問に関係する家系ではある。
 長兼と出雲国との接点を強いてさがせば、建久六年(一一九五)一一月一二日に後鳥羽天皇の蔵人に補任され、建仁元年末まで務めたことであろうか。途中の建久九年正月には新天皇土御門が即位しているので、鳥羽から土御門の蔵人へそのまま横滑りしたのであろう。中断を挟んで元久元年四月には土御門天皇の蔵人頭となっている。出雲国との関係は?との問が予想されるが、当時の出雲国は院の近臣藤原朝方が建仁元年二月に六七才で死亡するまで長きにわたって知行国主を務め、その子が出雲守となっていた。前述のように、朝方の子朝経が建久八年一二月に急死し、当座の処置として出雲守と後鳥羽天皇の蔵人に補任されたのは、九条兼実の娘宜秋門院のもとで中宮権大進であった藤原清長であった。清長はその直後の建久九年正月には新帝=土御門天皇の蔵人にも補任され、建仁元年(一二〇一)八月二九日までその任にあった。清長は朝経の死により後鳥羽天皇の蔵人であった藤原長兼の同僚となり、土御門が即位した際には共にその蔵人となっているのである。建久六年末に出雲守に補任された清長を通じて、九条家家司某に美談庄が寄進され、それが後に九条家当主に寄進されたのではないか。寄進者については、隣接する国富郷地頭に補任されていた内蔵氏関係者とこの地域を間に挟んで楯縫郡と神門郡に勢力を持っていた勝部宿祢一族が有力である。承久の乱後の勝部宿祢惣領となった朝山氏の子孫は九条家諸大夫として存続している。
 美談庄は承久の乱後、出雲国守護佐々木義清が地頭となった。
(補足)九条家領林木庄としてアップしたが、過去に言及した内容と重複し且つ問題があり削除して美談庄に改めてアップした。

« 九条家領美談庄の成立1 | トップページ | 貞永二年正月の除目1 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 九条家領美談庄の成立2:

« 九条家領美談庄の成立1 | トップページ | 貞永二年正月の除目1 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ