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2018年5月26日 (土)

鎌倉後期の杵築社遷宮新1

 以前の原稿を修正・補足する。弘安一〇年(一二八七)に仮殿遷宮が行われたが、その構造は本来の短期間用の「仮殿」ではなく、長期間の耐用を前提としたものであったと思われる。一方で本来の正殿造営を目指す動きはあったが、無沙汰が続いて実現しないまま、仮殿が老朽化し、次の仮殿造営が始まったのだろう。それが元亨四年(一三二四)に造営が完了し、正中二年(一三二五)二月一六日に仮殿遷宮として行われたが、やはりなお正殿遷宮を目指す動きが継続していたのだろう。建武元年七月五日後醍醐天皇綸旨で先例に任せて造営沙汰を命じているのも、その流れのものであろう。
 その後、南北朝動乱と国造家の分立という新たな状況が生まれたが、正平一二年(一三五七)には国造北島貞孝から仮殿造営と三月会について申請があり、それを認めて命令する後村上天皇綸旨が出された。前回の元亨四年の造営完了から三四年が経過しており、次の仮殿造営がすでに開始されていたのだろう。実際には千家方との対立もあり、南朝方の守護による施行も難航していた。
 貞治三年には山名時氏が幕府に帰参し、京極高氏が出雲国守護としての実権を回復した。それに対して翌四年一〇月北島資孝申状のみが残っている。次いで応安元年九月九日には室町幕府将軍家御教書により仮殿造営について守護に先例に任せて功を終えるように命じたことが「当社神主」に出されている。現在は出雲大社文書として残されているが、これは北島家から寄進したものである。同日に守護佐々木高秀に命じた文書は千家家から寄進したものであるが、これは杵築大社政所に残されたものである。千家文書の中心は政所に残されたものであることに注意が必要である。これに先立つ貞和六年五月二五日足利義詮御判御教書は三月会の復活・興業を命じているが、守護宛・国造宛の両方とも千家家から寄進した出雲大社文書であるが、国造宛は千家方に守護宛は政所に残されたものであろう。この時点では三月会は千家方が国造として行い、造営については北島方が神主として担当したのだろう。
 これに対して応安三年八月二八日杵築大社神官等申状は千家方神官が国造兼神主をめぐり千家孝宗を支持したものである。この申状から、現在北島家に残る文書の多くは本来千家方に渡されるべきものであったとの説が出されているが、これこそ行間を読まずに字面のみにとらわれたものである。前述のように、一旦は孝景が千家孝宗と組んで北島貞孝に対抗しようとしたが、結果的に文書は清孝死後の国造兼神主となることが決まっていた北島方に渡されたのである。

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