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2018年5月14日 (月)

塩冶高貞謀叛事件4

 塩冶高貞の後室(死亡時に最年長の子が五才、高貞は四〇代半ばか)が早田宮の娘であることは『大日本史料』を通じて理解していたが、早田宮の名が真覚で、宗尊親王の子で永嘉門院の兄であることをようやく確認した。南北朝の専門家なら周知の事実であるが、鎌倉期の専門家にはそれほど知られていないことなのだろう。早田の宮が大覚寺統関係者のもとで育てられ、その子が後醍醐天皇の猶子となることは十分にありうることである。     
 真覚は一度は円満院に入りながら、その後還俗し、元応元年(一三一九)に生まれたのが真覚、改め宗治王(源宗治)である。南北朝が分立した建武三年の時点では一七才であったが正月の除目で従三位となり、その後は南朝方に留まり、最後は貞和元年(一三四六)に九州で二七才で死亡したとされる(公卿補任)。そこから懐良親王と行動を共にしていたのではないかとされる。懐良親王は建武三年に九州へ派遣されるが失敗し、しばらくは忽那島など瀬戸内海地域を拠点とし、高貞が追討された暦応四年頃に薩摩に上陸したとされる。
 亀田俊和氏は高貞の後室西台が宗治王の妹であることから密かに南朝に通じ、それが発覚したため逃亡し討たれたとしたが、高貞の逃走の経路や過程をみても、南朝関係者がこれを支援した痕跡は皆無で、一族・関係者を伴っての孤独な逃走であった。高貞が南朝方となることで最も利益を受ける伯耆国名和氏の動きも確認できない。ただし、高貞の後室の出自が彼への疑念を抱かさせるものであったのは確かで、それゆえに師直がこれを利用して讒言したというのが真相に近いのではないか。
 建武政権下でも毛利貞親はその母が長崎氏出身の亀谷局であったがために謀叛への荷担を疑われ、京都で長井氏惣領挙冬のもとで幽閉された。荷担の事実はなく、殺害されることなく生き延びたが、彼の人生に大きな負の影響を受けた。父時親は八〇才を越え、五〇代の貞親が惣領となっていたが、おそらくは同母弟二名も同様の処罰を受けた可能性が高い。弟の一人が修理亮某であり、父時親から河内国加賀田郷を譲られ、長崎氏と関係の深い楠木正成に兵学を指導したとされる毛利修理亮であろう。
 前述のように動乱前半において毛利氏関係者の大半は南朝方であった。唯一例外であったのは吉田庄を後醍醐の寵臣阿野氏に奪われたため、母の実家にいた貞親の孫であった。貞親の庶子として吉田庄に派遣されていた親衡の子であったが、父は船上山の後醍醐のもとに参陣したのち都へ上洛し、その後、毛利氏関係者とともに越後へ下ってしまっていた。そうした中で動乱が起きると孫は家臣とともに吉田庄を奪回し、上洛後は尊氏方として行動した。これが庶子の子であった人物が安芸毛利氏の惣領となるきっかけとなった。高師直・師泰との関係から元服後の名前は「師親」とし、兄弟の滅亡後は「元春」と改名した。
 高貞が幕府方から後醍醐方となり、さらには尊氏方に転じた際には合理的判断があった。それに対して暦応四年の時点で彼が南朝方へ転じる合理的理由は見当たらず、その後の逃避行をみても南朝との結び付きは確認出来ない。謀略の犠牲者となったとすべきであろう。

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