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2018年5月27日 (日)

鎌倉初期の出雲国守護1

 承久の乱以前の出雲国守護については、安達親長が承久の乱の時点の出雲国守護ではないかとの推定がなされているのみであるが、これをもう少し深めていきたい。ただし、守護に関わる職の名称についてはここでは考慮せず、守護の名称を使用する。
 出雲国守護の在職を示す史料は康永二年三月一六日出雲孝長和与契約状の冒頭の文書目録に「守護人親長より貞清ニいたるまて代官□□□□正員状ハうせて候やらん」とあることによる。その示すところは、出雲大社に守護から一定程度の文書が発給されるようになったのが親長の時代であるとの意味である。守護人親長とは建久八年に但馬国守護に現任していたことが確認できる安達親長であるとの佐藤進一氏の推定は妥当であろう。実際に幕府の文書としては、建久三年に頼朝が内蔵資忠が領家から杵築大社神主に補任されたことを安堵する袖判下文と政所下文を出しているが、これはその緊密な関係を背景に頼朝が御家人である資忠に与えたもので、特殊な文書である。
 これに対して幕府文書で初見となるのは元久二年四月二二日関東下知状であり、出雲国惣社神官等が大草郷地頭代官家重による狼藉を訴えたのに対して、守護が両者から聞き取りを行い対応するように命じている。この文書により「守護所」ならびに「守護」の存在を確認することができる。一方、国造の御家人化は承元二年九月六日将軍袖判下文によって国造孝綱が大庭・田尻保の地頭に補任されたことにより確認できる。地頭であったとまでは言えないとの意見もあろうが、承久元年一一月一三日関東下知状のように、国造が地頭に補任されていたことを前提とする偽文書が作成されている。幕府と関係の深い内蔵孝元だから国内で数箇所の地頭に補任されたとの意見に対しては、庄園領主や国衙の了解なしには実現しないことを確認する。
 文書目録の「守護人親長」の文書とはこの元久~承元~承久三年にかけての文書を示していよう。この親長以前の守護の文書は、杵築社に対するものはあっても、国造に対するものはなかったことになる。
 すでにみたように、建久元年の正殿造営は主に内蔵資忠が神主として推進し、遷宮後も資忠が神主に返り咲いていた。これに対して国造自身が幕府からの文書を発給されたのは承元二年が初めてであった。建武三年作成の国造孝時申状には頼朝下文に対する土肥次郎施行に続いて右大臣家御教書が記される。後者は承元五年のものであろう。一方土肥殿施行状とは、後に作成された①文治二年正月日付の平朝臣下文であろうが、守護ないしはそれに関係する称号を付けて呼ばれてはいない。さらに②二月九日付平朝臣某下文で施行されているのも不可解であり、この土肥殿施行状を根拠として土肥実平が守護ないしは惣追捕使であったと立論することは無効である。頼朝下文としては③元暦元年一〇月二八日付のものがあり、これを④一一月二九日に平朝臣が伝えているが、その花押は土肥殿施行状と呼ばれる文書の花押と同じである。この4通を比較すると①のみ「杵築大社」と呼び、他の三通は「杵築社」と呼んでいる。また、末尾の文言が①のみ異例であり、4通すべてが後世に作成された偽文書であるが、②~④の三通が作成されていたその上に①が作成された可能性が高い。

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