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2018年5月14日 (月)

国造譲状と造営関係史料9

 北島家譜にはこの史料に続いて「一 建長元年己酉六月日御遷宮注進記録」の題名に続いて出雲大社正殿式の方尺が記されている。この史料と寛文の造営に関して残された史料が類似し、且つ「正殿式」との表記が生まれたのは近世以降だとして、この史料そのものを近世のものとする意見があるが、北島家譜そのものはそれ以前から存在した国造家譜を引き継ぐ形で、南北朝期以降書き加えられたもので、途中で何度か写し直すことはあり、その過程で、都合の悪い部分が削除されたりしたことはあるが、この部分が寛文の造営以降に挿入された可能性はほとんどない。
 建築史家は差図を重視されるが、現在残っている①②③④のみでは新たな造営を行うデータが揃っているのは言いがたく、寸法を明示したものがなければ造営はできない.実際に、これを所持する国造側がその開示をサボタージュしたため、領家はやむなく国造を神主に補任した。寸法を明示した注文とその補足史料として簡単な差図があったと思われ、これが康永二年の孝景作成の目録にみえる「差図」である。そこには「宝治造営旧記」とあるが、これは②そのものであり、これが北島家に残っていることは、「差図」も北島家に渡されたはずである。そして差図とは宝治二年造営の本殿に関するものである。
 建築史家は「金輪御造営差図」について言及するが、第一に確認すべきことは、これは千家方に残っているので、康永二年目録に見える差図ではない。これ以降に、何らかの理由から作成されたものである。三本柱を束ねる構造は、今回検出された遺構と共通しているが、その情報には「引橋一町」等新たに付け加えられたものがあり、これを識別する必要がある。応安四年一二月一九日に千家孝宗が譲状を作成しており、そこに見える「造営旧記」とは④⑤⑥⑦であろうが、それに加えて差図の所持が必要であったために千家方で「金輪差図」の原型となるものが作られたと思われる。

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