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2018年5月22日 (火)

佐橋庄南条の譲与

 毛利元春申状によると、了禅は佐橋庄南条を五人に対して譲与したとする。問題は五人とは誰で、その時期はいつかという事である。その一人が貞親の子孫太郎親茂で七条中二条(庄屋条・加納条)を譲られている。また、元春の主張によれば建武四年に譲与が行われたことは確実である。すべて了禅の甥である甲斐入道の筆になるという。建武三年の譲状もあるが、それは甲斐入道がなお南朝方であったため、別筆である。この時点で幕府方であったのは了禅と師親(元春)のみであり、建武三年の譲状は師親宛のみであろう。ただし、元春は父親茂が、了禅が出家していない時親であった時期の譲状を有していることを認めており、これが建武元年の譲状となる。その対象は南条を譲られた五人であり、元春は含まれない。五人とは嫡子貞親の子宮内少輔入道と親茂、庶子四郎の子修理次郎と五郎の子二人である。
 当然、それに先立ち時親が嫡子貞親や庶子四郎と五郎に譲った譲状があったはずであるが、時親の子が母亀谷局が長崎氏の出身だということで謀叛への関与を疑われて拘束されたことにより、再譲与が必要になった。そして四郎についてはその子が修理次郎であることから貞親が右近大夫に補任されていたのと同様、修理亮に補任されていたはずであり、貞和三年三年八月二七日足利直義下知状にみえる毛利四郎は別人である。五郎については不明である。拘束されるとともに、三人の所領も没収された。吉田庄地頭職は花山院家祗候人美乃判官全元に与えられた。修理亮の所領とは近在を所領とする楠木正成が兵学を学びに通ったとの伝承の残る河内国加賀田郷であろう。
 毛利氏の中心所領である越後国佐橋庄は一四世紀初めの昭慶門院所領目録に室町院領の中にみえているが、大覚寺統の庄園であった。安芸国吉田庄にいた親茂が船上山で後醍醐に軍功を積んだことで没収を免れたと思われる。五人に譲られた南条七ヶ所のうち庄屋条と加納条が親茂に譲られたのはそのためであった。ただしそれは建武元年時点であり、建武四年の時点では親茂に吉田郷内が譲られていることから、南条における親茂分は減少した可能性がある。
 佐橋庄南条の毛利(毛利南条)氏の惣領は石曽祢殿と呼ばれた宮内少輔入道道幸であった。そのことは康正三年一一月二七日寄進状の中で南条駿河守広信が宮内少輔と北条氏が対立したことで、毛利南条氏と越後毛利氏の氏寺である専称寺の関係が途絶えたと述べていることからもうかがわれる。南条広信は庄屋条内の田を専称寺に寄進しているように宮内少輔の直系の子孫ではなく、親茂の子匡時・直広の子孫である。
 建武四年の時点では元春のみならず父親衡(親茂)、祖父貞親も安芸国に下向しており、貞親には吉田庄内だけでなく河内国加賀田郷も譲られ、次いで貞親は庶子近江守に譲っている。建武政権が没収した所領が幕府方となった毛利氏に返されたのだろう。

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