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2018年5月22日 (火)

丹後国志楽庄

 平治元年(一一五九)閏五月日宝荘厳院領注文(東寺百合文書)に一二ヶ所の庄園の一つとして丹後国志楽庄がみえ、領家は大宰大弐平清盛であった。宝荘厳院は鳥羽院の御願寺で長承元年(一一三二)に建立され、そこに庄園が立券・寄進されたと考えられ、その後美福門院領となったと思われる。平家の滅亡により没官領として東国御家人が地頭に補任された可能性が高い。建久六年には後藤左衛門尉基清が地頭であったが、雑掌の訴えにより三分の一が没収され、地頭が交替している。
 地図をみると、南側から順に志楽川、朝来川、河辺川という三河川沿いに耕地が広がり、中心は志楽川沿の春日村であった。これに対して朝来村が三分一方とされた可能性が高い。河辺村は春日村とともに三分二方とされたと思われる。
 承久元年九月二三日には志楽庄安永名内田一反が吉永という人物によって西願寺に寄進されている。同じ日に西願寺に二二名の住人が連署して田一一〇歩、畠二五〇歩を寄進しているが、そこには西願寺について聖朝将軍家公私惣願之祈祷所と記しており、この時点で志楽庄内が関東御領であった可能性もある。
 春日村地頭であった後藤基清は承久京方で所帯を没取され、新地頭が補任されたはずであるが、その名は不明である。朝来村については元亨二年八月二五日に毛利左近大夫が朝来村内景守名を馬三郎入道に宛行っており、毛利時親の嫡子貞親が地頭であったが、毛利氏が朝来村を獲得した時期は不明である。あるいは長崎泰綱の娘亀谷局領を譲られた可能性もある。
 文永二年(一二六五)一一月日若狭国大田文には同国田井浦について、関東御一円御領と注記した上で、さらに丹後国志楽庄に押領されていることが記されている。田井浦が得宗領であったことからすると、それと境を接する志楽庄河辺村も得宗領で、その関係で田井浦の庄園領主の権限が押領されて関東一円領となったのではないか。なお現在は田井浦は福井県ではなく京都府に属している。
 元徳二年正月二八日には後醍醐天皇が宝荘厳院を東寺に施入し、庄園は東寺領となった。東寺による支配の状況は史料を書いており不明である。
 幕府滅亡により、得宗領であった志楽庄春日村・河辺村は朝廷が没収した可能性が高い。朝来村地頭毛利貞親も謀叛への荷担の疑いで京都で拘束されており、やはり没収された可能性が高い。元弘三年六月には志楽庄内鹿原山金剛院美福門院御願所に対して庄内の地頭下司などが自由に山木を切り取ることを禁止した禁制が某によって出されている。
 暦応四年一〇月四日に足利尊氏が志楽庄地頭職を西大寺に寄進しているが、醍醐寺分と北禅院造営料所分は除くとしている。春日部村が西大寺に寄進され、朝来村と河辺村は西醍醐寺に寄進された。

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