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2018年5月18日 (金)

毛利時親譲状1

 元徳二年三月五日毛利時親譲状は、祇園社との間で下地中分が行われ、地頭分となった吉田庄内吉田郷と麻原郷を孫である毛利孫太郎親茂に譲っている。ただし、祇園一切経の負担を勤仕せよという内容には疑問を感じる。何より、時親の嫡子貞親を飛ばして孫に譲る理由が理解できない。
 これに対して、関係する譲状では唯一原本だとされる建武三年正月晦日貞親譲状では、吉田郷(吉田庄の誤りヵ)は父時親ではなく母亀谷局が祖父経光(寂仏)から文永年間に譲られ、貞親は母から譲られたものだとした上で、吉田庄内吉田郷のみを、子時茂ではなく、孫師親に譲るとしている。これについても、当時、後醍醐のもとにあった貞親が、尊氏方の師親に譲る理由が理解できない上に、この時点では元服し師親と名乗ってはいないとの疑問を呈した。
 時親譲状に戻ると、何度か作成されたはずである。最初は①嫡子貞親への譲状が作成されたが、貞親が建武政権から謀叛への関与を疑われ、所領が没収されたことを受けて、②時親が越後国佐橋庄内南条など残された所領を子孫に再分配した。これについては毛利元春申状の中でも触れられている。次いで、時親と師親を除く一族が南朝方であることを受けて、③時親から師親への譲状が作成された。
 時親譲状は少なくとも以上の三回は作成された。この中に、元徳二年の譲状は入らないのである。この譲状の背景には、吉田庄が嫡子貞親ではなく、祖父時親から孫親茂に譲られたとし、貞親が没収された所領に吉田庄が含まれないことを主張したもので、後に作成された偽文書であろう。その時期としては、時親が死亡した前後に、師親が粉失状を作成した時点ではないか。そこでは、毛利氏惣領北条氏当主ではなく、長井氏二名と中條氏が証人となっている。その原因としては、その時点の北条氏が南朝方であったことがあろう。

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