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2018年5月26日 (土)

鎌倉後期の杵築社遷宮新3

 後醍醐天皇が即位した文保二年の翌三年正月には一二月二五日関東御教書に基づく造営を終えるよう、六波羅探題が国造に伝えている。だだしそれでも造営は進まず、元亨三年三月五日関東御教書で、国衙正税半分を寄せて造営せよとの命令が実行されなかったため、当座は費用の経替の許可を求めた国造の申請に任せて造営せよと幕府が命じて、ようやく翌四年に造営が完了し、翌々年二月一六日に遷宮が完了した。これに対して、嘉暦二年九月五日関東御教書が出されていることから、本当に造営・遷宮が行われたのか疑問であると述べたが、これは仮殿の先にある正殿造営に関するものであった。なお、正殿造営が模索されていたのである。この頃作成されたとみられる杵築造営注文(北島家文書)では、宝治の正殿の次に弘安一〇年の仮殿遷宮を飛ばして正中の仮殿遷宮を記している。正殿遷宮に進まなかったためであり、正中の仮殿遷宮から今度こそ正殿遷宮に進めたいとの意思を示すものであろう。ただし、遷宮と遷宮の間の年数にはズレがみられる。これに次ぐのが前述の建武元年の後醍醐天皇綸旨である。
 文永七年正月の焼失以来の造営で、本来の仮殿とは異なる耐久性を前提とした仮殿が造営されるようになったが、その規模は小さかったため、本来の規模の正殿を目指す動きがあったことを確認した。当然、正殿の具体的規模を示す史料があったことを前提として目指したものである。正殿式と正殿造という二つの用語が近世になって生まれたとされるが、少なくとも正殿式という言葉に相当する具体的なものがあったことは確実である。表題について十分系統的理解ができていかなったが、今回ようやく目の前の霧がはれたことを実感した。

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