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2018年5月31日 (木)

平範家とその子孫1

 平範家は因幡守として赴任した際の詳細な記録を記した日記の筆者として知られる時範の孫である。時範は藤原師通の家司を務めた実務家であったが、その子家親以降は公卿となっている。家親は、鳥羽・崇徳両天皇の蔵人となり、待賢門院判官代を務めているが、保元の乱の影響は受けていない。紀伊守・淡路守を歴任した後、保延二年(一一三六)に五〇才で参議となり、康治元年(一一四二)から二年は大宰大弐を務めている。藤原為房の娘を室とし、生まれたのが範家であった。
 範家は藤原清隆の娘を室とし、生まれたのが親範であったが、その姉妹には為房の孫吉田経房の室となった娘もいた。清隆は実親より四才若いが、永久四年には院分国であった紀伊守となるなど、鳥羽院との関係を有し、崇徳天皇の即位と同時に昇殿を認められ、天治元年(一一二四)には待賢門院別当となった。嫡子光隆を出雲守として知行国主を務める一方で大国播磨守も務めている。保延五年に近衛が誕生し立太子されると春宮亮・蔵人頭となる一方で、成勝寺造営の功で正四位上となるなど、鳥羽・待賢門院・崇徳・近衛の四者と関係を有した。過去に述べたように、鳥羽と崇徳の対立は近衛の死以降である。
 範家は二三才であった保延元年(一一三五)末から永治元年(一一四一)末まで二期八年相模守を務めている。久安四年(一一四八)正月には範家の嫡子親範が一二才で伯耆守に補任された。父範家は三五才であったが、正五位下でしかなく、祖父実親は同年二月に出家し一一月に死亡している。父範家が知行国主ではあったであろうが、母方の祖父で参議であった清隆がバックアップしていたと思われる。清隆は久安五年には権中納言となり、次いで大宰権帥を五年間務めている。範家は保元の乱後に後白河天皇のもとで蔵人頭となり、同二年に従三位(非参議)となり、同四年三月一三日に出家し、応保元年九月七日に四七才で死亡している。同年四月一七日には清隆も七二才で死亡。
 保元三年四月に親範の嫡子基親が八才で出雲守となり、翌平治元年(一一五九)閏五月には源光宗の跡の伯耆守に補任されている。出雲守は母方の曾祖父高階泰重との関係であろうか。二二才であった親範(一四才差でしかない)は前年の保元二年一〇月二二日に正五位下となり、三年二月に左少弁と皇后宮大進(統子内親王立后)に補任されている。年齢も官職・官位もギリギリではあるが親範が知行国主であったと思われる。同日に皇后宮権大進を兼任したのが親範の姉妹を室とする一七才の吉田経房で、皇后宮権少進に補任されたのが一二才の源頼朝であった。こうした関係を背景にしたのか、基親の娘は九条頼経の女房として鎌倉へ下向後、北条重時の後室となっている。

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