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2018年5月14日 (月)

国造譲状と造営関係史料7

 康永二年三月一六日には出雲孝景が和与状を作成しているが、同時に関係文書目録を作成して清孝方=杵築社政所へ遣わすべきものは目録以外でも後日に渡すとしている。京都での裁判費用がかさんだためか一部の文書は質券に入れてしまい、以前に清孝から送金があり請出すように指示があったので、早急に請進めることを約束している。相手が明記されていないが、徳治二年の泰孝譲状については、写に対して孝宗が裏を封じており、和与の相手は孝宗である。譲状の裏書きには「それより給下候案文ニまかせてかきて候、正文ハやけて候よしうけ給り候」とあるが、これは孝景が和与文書目録で書いてあることと同じであり、正文は焼失したと聞いたが、孝宗から給わった案文に任せて作成したものである。一応の案文は孝宗のもとにあったが、それを京都で正文から写したものを入手したという形ではくを付けたことがわかる。そして粉失文書目録では、一通も渡すことができない場合は約束した所領を悔返されても異論無き旨を約束している。
 ここからわかるのは、塩冶高貞の死を契機に孝景が孝時流の後継者貞孝に対して相論をおこしたが、すると孝宗が孝景に対して、裁判のため京都へあげた関係文書を渡すことを条件に、孝景に杵築社領の一定部分を清孝から譲るという約束をしていたことである。このことについて、応安三年八月二八日杵築大社神官等申状では、貞孝が所持すると号する文書は清孝相伝の証文であり、清孝のもとに返されるはずが京都で質入れされていたこと、質から請出して文書を渡すことを孝景が自筆の文書で約束したが、関係文書は貞孝方に渡されてしまったことを述べて、貞孝方の所持は不当だとして、その後死亡した孝景に代わって子息時孝に対して何度も御教書が出されていると述べている。
  康永二年三月二八日出雲清孝譲状は、これ以前に作成された譲状に変更を加えた新たな譲状である。「旧記并代々御下文以下文書」と旧記を御下文の先に記している点は、これ以降の譲状の先駆けとなる。応安四年一二月一九日出雲孝宗譲状には「相副 当社造営旧記・差図并公家・武家代々御下文以下調度之正文等」とあり、応永二四年一二月一三日出雲資孝譲状には「旧記・差図・関東御下知状之外社家之□記」とある(貞孝は急死したのか資孝への譲状は残っていない)。寛正二年五月一二日出雲持国譲状まで、この形が続くが、戦国期以降の譲状では造営旧記は姿を消している。この点については松薗斉氏「中世神社の記録について-「日記の家」の視点から」に譲状の一覧表が掲載されている。

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