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2018年5月14日 (月)

国造譲状と造営関係史料4

 建武三年前半に国造孝時が死亡したが、前年である建武二年には前回の泰孝置文を踏まえた対応が検討された。福得丸も三〇歳後半になり彦三郎孝景(三郎孝時とともに後継者の候補であることを示す)と名乗り、孝時の子とともに有力な後継者であった。覚日は実子孝景ではなく、孝時の嫡子三郎清孝を後継者と考えていたが、清孝には問題が発生したようで(あるいは病弱で子孫誕生が期待できないことか)、孝時は悔返して弟の六郎貞孝に譲ることとした。その譲状では「代々御下文以下之文書」を相副えてとのみあり、「造営旧記」に触れていないが、当時「造営旧記」が京都へ訴訟のため送られていたことが関係するかもしれない。いずれにせよ、最初には「代々御下文以下之文書」が記される。
 清孝は偽文書ではあるが、文保二年には元服していたと考えられ、三〇代であったと思われる。建武二年の時点で元服直前であった貞孝とは二〇才近い年齢差が想定され、異母弟であった可能性が高い。これに対して五郎孝宗は貞孝よりやや年齢が上で、貞孝の同母兄であったであろう。同母(妙善)の兄弟でありながら、父母が弟を重視するのは、嵯峨天皇の中宮西園寺姞子(大宮院)がともに自分の子でありながら後深草天皇よりも六才年下の亀山天皇を重視したのと同じであるが、孝宗からすれば心穏やかならざるところがあったと思われる
 孝時の悔返しに対して覚日が後家の立場から口入し、清孝を一期分の国造とし、その跡を貞孝が継承することを決めた。一方で覚日は自らの子孝景には孝時から譲られた所領を一期の後に譲る旨を伝えた。それを甥である出雲国守護塩冶高貞に伝えた文書中に大社関係文書を領家雑掌との裁判のため京都にあげており、手元にないので、とりあえず玉造の僧明正御房に預けたことを示す請取りを明後日までに送るとしている。これに関係するのが建武三年と思われる国造孝時申状である。
 次いで孝時の死を受けて、建武三年六月二日に覚日が孝時跡の惣領を清孝とし、自らの知行分とその他の子が知行する所領については別紙に記したとして弟である守護塩冶高貞のもとに使者を派遣して報告した。これを受けて、高貞が六月五日付けで覚日の意向を国造清孝に対して施行するとともに、守護代的立場にある日野掃部左衞門入道と富田弥六入道(頼秀)に対して、孝景以下の輩が異論を申すようなら急ぎ注進するよう命じている。この時点で貞孝は元服直前であったようで、六月一九日には伯耆国長田城、晦日には小松城で合戦に参加し、軍忠状を提出して、高貞から証判を受けている。

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