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2018年5月29日 (火)

宇多川東庄領家平信輔

本日は図書館で確認するはずであったが、八時半すぎからインターネットの接続ができなくなり、その対応に追われて、図書館には行けなかった。明日こそである。メガエッグを利用しているが、ルーターが異常を表示して赤く点滅しており、サポートに電話使用としたがおかしい。IP電話もルーターに接続しており、電話もできなくなった。仕方なく、スマホでかけるが何度かけても話し中でつながらない。しばらくすると、メガエッグで接続できないとの電話が殺到しているので、後でかけてほしいとの音声がながれた。スマホはふだんWiFiのみで接続しているが、それを解除してネットにつなぐと、接続不能となったのは一七万軒に及ぶと表示された。当初はルーターが故障したと思ったが、プロバイダーの不具合であった。パソコン通信の時代にも、通信不能となり機械を買い換えたがかわらないので、電話したら、プロバイダーの問題で、結果として無駄な支出をさせられたことがあった。

  建治二年一〇月一七日吉田経俊処分帳では経俊領がその男子春宮大進俊定(母は平業光女子)、治部大輔経継(同母)、大夫経世(同母)、前美濃守俊氏(母不明、長兄ヵ)の四人とともに、二位中将(西園寺実平)、堀河中納言(具守)、勘解由次官(平信輔)、伊古に譲られている。最後の伊古がどのような人物かは未確認であるが、三条女房の所領を譲る契約が結ばれ、これを経俊が安堵した形となっている。三条女房とは三条実平の子で亀山院大納言典侍と呼ばれた女性であろうか。処分帳には経俊と室である業光女子とともに右衛門佐が署判を加えている。『鳥取県史』では坊城俊忠との注を付けているが、該当者がみあたらない。俊定は春宮大進とともに右衛門佐を兼任しており、俊定に比定すべきである。
 『尊卑分脈』では経俊の子として中納言貞平の室となった女子がいたことを記すが、これが西園寺実平の誤りであろう。実平は公基の子で建治二年に権中納言に補任されたが、翌年出家している。堀河具守も経俊女子を室としている。
 伯耆国宇多川庄を譲られた平信輔は平高輔の子である。高輔の母は三条公俊女子で、高輔女子が五辻忠継との間に生んだのが後醍醐天皇の母忠子(1268-1319)で、信輔女子が後二条天皇妃となる。嘉暦三年一一月八日坊城定資(俊定の嫡子)処分状にみえる故五辻禅尼は元応元年(一三一九)に死亡した忠子であろう。忠子の母は信輔とは兄弟である。信輔と経俊の関係を示す史料は未確認であるが、建治二年には二人とも蔵人であり、やはり信輔が経俊女子を室としたのかもしれない。
 春宮亮経顕は坊城俊定の孫であるが、勧修寺を相続した。忠子分加賀国井家庄年貢二〇〇貫を経顕が譲られていたが、父資定領である井家庄全体を譲られたため、年貢二〇〇貫は御阿賀分(関係不詳)となった。一期分でその死後は定資の子経量分とされた。

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