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2018年5月14日 (月)

国造譲状と造営関係史料6

 問題は違乱あるべからずと書き置いた「大方殿」であるが、後家である覚日であって、妙善をこれに比定するのは誤りである。よって暦応三年四月に覚日が稲岡郷内の所領を孝宗に与え、これを国造清孝を通じて伝えたと考えるべきである。丁度、孝時を当座の惣領とする際にも、覚日は自らの所領を一期の後は実子である孝景に与える譲状を作成したのと同じである。兄でありながら、相続対象者から排除されていた孝宗への配慮であった。ところが、暦応四年三月には相続の立会人である出雲国守護塩冶高貞を討伐せよとの命令が幕府から出され、逃れてきた出雲国内で高貞は自害してしまった。
 これをうけて最初に動いたのが東三郎=孝景であり、その相論の相手とは清孝ではなく、その後継者貞孝であった。次いで、孝景と孝宗が結ぶという事態に発展した。建武三年六月二日の覚日書状の内容が後に書き換えられたことが問題となったが、本質的な点は三郎清孝を国造としたことを述べているにもかかわらず、この文書は清孝から譲られたと主張する孝宗ではなく、貞孝が所持していたのである。訴訟関係文書が京都へ持って行かれた後に作成された文書であり、国造孝時と領家雑掌の裁判とも無関係である。六月二日書状は建武二年の孝時譲状、並びに置文とともに貞孝に渡されたのであった。文書はそのことで利益を得るもののところに残るという定石通りである。孝時譲状は清孝ではなく貞孝に宛てたものであった。これに対して建武元年八月一〇日の孝時から清孝への譲状は偽文書である。これがなければ、清孝から孝宗への譲状が成り立たないのである。
  ただし、清孝譲状もまた残されている正しい譲状と比べて内容、形式が異例である。これに先立つ康永二年三月三日の守護関係者の注進状では「国造孝宗代宗高申」とあり、すでに孝宗が国造を称している。康永二年三月一五日覚明筆崛狗九条袈裟裏書によれば、清孝の死亡はこれ以降のこととなる。そして浄覚書状により五月一三日までには死亡していた。よって康永二年六月八日国造清孝杵築内所領配分状は後に作成された偽文書である。

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