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2018年5月 1日 (火)

領家と幕府の文書

 領家ではなく幕府から御家人として神主に補任されたとの主張をする国造は、宗孝以来ということで、元暦元年一〇月二八日の頼朝下文を作成した。次いで、宗孝から孝房への譲状と、幕府成立を受けての文治二年正月日土肥殿下文を作った。当然、孝房を神主に補任するためのものである。その前提となる頼朝下文を作らなかったのは花押の変化など難しい問題があったからであろうか。いずれにせよ、五月に孝房が停止されているとの『吾妻鏡』の記述との整合性を図らなければならなかった。また、領家側の提示する領家下文を頼朝が安堵する形が誤りであることを印象付けるためでもあったろう。
 次いで三代将軍実朝の文書が問題となった。承元二年九月二六日の頼朝下文により国造孝綱が大庭・田尻保地頭職に補任された文書があったはずであるが、後に孝綱系と弟政孝系の間で国造をめぐる対立があったため、政孝系にはそれが伝わらなかったのであろうか。当然、そうした文書が存在したことは周知の事実である。
 一方、御家人であった証拠として右大臣家御教書があげられているが、これはライバル中原孝高が神主であった承元年間のもので、建暦三年との追記のある八月二一日領家藤原雅隆袖判御教書もその宛名「杵築神主」は国造孝綱ではなく、中原孝高である。孝高が承久の乱で没落する中で、その文書を入手・保存したのだろう。これらの文書には具体的名前が出てこないため、国造家が神主であった証拠文書とすることが可能である。逆に孝高宛とはっきりわかるものは不利なので処分したと思われる。
 幕府と国造家の関係が密になったのは出雲国守護佐々木泰清が国造義孝が大庭田尻保地頭職を安堵されたことを通じてであった。神主補任権を持つ領家方では当主の相次ぐ死により、実態を踏まえて主体的な補任などをする余裕はなく、さらには杵築社本殿の造営旧記を有することが神主職をめぐるライバルに対する優位性となった。神主を牽制するために設置された権検校も国造の関係者が補任され、世襲されるものとなった。

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