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2018年5月27日 (日)

鎌倉初期の出雲国守護2

 『大山寺縁起』には佐々木四郎左衛門尉高綱が山陰道七ヶ国を給わって下向した際に、伯耆国大山権現の祟りのため重病となり、なんとか一命をとりとめると、自らの等身地蔵を神殿に安置し、建久二年二月三日には三町田を寄附したことが記されている。佐々木氏系図に備前・安芸・周防・因幡・伯耆・日向・出雲等拝領と記すのとは異なっている。実際に守護に補任されたことが確認できるのは長門国であり、隣国周防もその可能性が高い。この山陰道以外の二ヶ国に、因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐の五ヶ国を加えたものではないか。建久四年一二月に配流を許された佐々木定綱が長門・石見の守護と隠岐の国地頭に補任されているが、その前任者が高綱ではなかったか。前述のように長門については確認できる。
 因幡国については大江広元が因幡守であった際の目代が大井実春であり、守護(惣追捕使)を兼任したのではないかと佐藤進一氏が推測した。文治元年六月二九日に広元が因幡守を辞任したことで、守護が交替した可能性がある。伯耆国については国御家人である金持氏が鎌倉初期から守護であったとの説があるが、金持氏は北条氏との関係で守護に補任された東国御家人である。大山寺縁起の記事は決して矛盾しないのである。
 出雲国については因幡国と同様に、出雲守藤原朝経の目代に東国御家人兵衞尉政綱が補任されており、大井実春と同様、守護を兼務していた可能性が高い。その政綱は奥州藤原氏のもとに逃れていた義経との結び付きを指摘され、幕府の派遣した役人に引き渡された。これにより守護は交替し、高綱が守護に補任されたのではないか。『京極家譜(丸亀家)』には建久元年二月一五日に野木(乃木)村に高綱が後の善光寺につながる御堂一宇を建立したことが記されている。
 山陰道の五ヶ国について確認したが、出雲国と伯耆国の守護に高綱が補任された可能性は高い。他の三ヶ国についても前後の時期を加えればその可能性はあるのではないか。高綱の出雲国守護在任の下限は建久六年であり、一方、安達親長は建久八年には但馬国守護であったことが確認出来る。高綱出家を受けて安達親長が出雲国守護に補任されたと考える。以上、鎌倉初期の出雲国守護は兵衞尉政綱-佐々木高綱-安達親長と受け継がれ、承久の乱京方により親長ば没落し、佐々木義清が隠岐国とともに出雲国守護に補任された。

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