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2018年5月31日 (木)

造営・遷宮関係史料をめぐって

 建久元年の遷宮日時の問題で北嶋家文書を確認したが、松江市史編纂での原本校正作業で、県立図書館影写本の確認が十分ではなく、結果として『出雲国造家文書』でのチェックに止めてしまったようである。『松江市史』を利用される方にはお詫びを申し上げるとともに、訂正したい。当時は影写本を焼き付けたものを製本したものを自由に閲覧できたが、全てを確認しなかったとしか思えない。現在は閲覧を請求する必要があるので、六册全てを出してもらい確認した。結果的には(七)[一册に複数の巻を収録しているものもある]が「大社造営之部」となっており、この当該史料が含まれていた。『新修島根県史』史料編にはこの巻数毎に文書が収録されているが、当該史料は収録されていない。
 『大社町史』は『鎌倉遺文』から収録しており、その過程でも影写本による確認はなされたのかも知れないが、ともに「十」月で、『出雲国造家文書』も「十」月であった。字体そのものは原本の写真で明らかなように「十」と読み間違えようのないものである。
 以上のように、六月十八日説と六月二九日説の二つというのが正確であった。どちらによるべきかといえば前者である。後者は建久元年の遷宮に至る造営の中心的担い手が国造家ではなく内蔵資忠であったため、神主を資忠に代えて国造孝房を補任することを求めた解状の具書(証拠文書)であった。建久元年の遷宮関係史料が残っておれば、その規模・構造を含めて極めて注目すべきものであったことがわかるが、国造側にとっては残してはならない史料であった。
 同様に、建久二年(一一九一)八月二日解状は、久安五年(一一四九)一一月二八日に国造兼忠の私宅が焼失したために作成された粉失状であるが、何故に四二年も経ってから提出されたのかという疑問が生じる。リストの中で「正暦四年一一月日吉忠賜国造庁宣」については長保四年六月二八日太政官符により出雲孝忠が国造に補任されていることと矛盾し、リストのこれ以前のものは偽文書である。それ以降のものについても、国造家の家譜と一致する以上の根拠は確認できない。
 当ブログでは出雲宗孝は一族内の新興勢力として出西郷の開発により台頭して、杵築大社神主となり、続いて従来の一族に代わって国造職を得たとする説を示した。また、久安元年の遷宮が終了して間もなく、内蔵忠光が中心となって所領を日野実光・資憲父子に寄進して杵築大社領が立券されたとの説も示した。まさに上記に関する情報を消し去るための久安五年の文書焼失であり、実際にあったかどうかは不透明なものと考える。

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