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2018年5月

2018年5月31日 (木)

造営・遷宮関係史料をめぐって

 建久元年の遷宮日時の問題で北嶋家文書を確認したが、松江市史編纂での原本校正作業で、県立図書館影写本の確認が十分ではなく、結果として『出雲国造家文書』でのチェックに止めてしまったようである。『松江市史』を利用される方にはお詫びを申し上げるとともに、訂正したい。当時は影写本を焼き付けたものを製本したものを自由に閲覧できたが、全てを確認しなかったとしか思えない。現在は閲覧を請求する必要があるので、六册全てを出してもらい確認した。結果的には(七)[一册に複数の巻を収録しているものもある]が「大社造営之部」となっており、この当該史料が含まれていた。『新修島根県史』史料編にはこの巻数毎に文書が収録されているが、当該史料は収録されていない。
 『大社町史』は『鎌倉遺文』から収録しており、その過程でも影写本による確認はなされたのかも知れないが、ともに「十」月で、『出雲国造家文書』も「十」月であった。字体そのものは原本の写真で明らかなように「十」と読み間違えようのないものである。
 以上のように、六月十八日説と六月二九日説の二つというのが正確であった。どちらによるべきかといえば前者である。後者は建久元年の遷宮に至る造営の中心的担い手が国造家ではなく内蔵資忠であったため、神主を資忠に代えて国造孝房を補任することを求めた解状の具書(証拠文書)であった。建久元年の遷宮関係史料が残っておれば、その規模・構造を含めて極めて注目すべきものであったことがわかるが、国造側にとっては残してはならない史料であった。
 同様に、建久二年(一一九一)八月二日解状は、久安五年(一一四九)一一月二八日に国造兼忠の私宅が焼失したために作成された粉失状であるが、何故に四二年も経ってから提出されたのかという疑問が生じる。リストの中で「正暦四年一一月日吉忠賜国造庁宣」については長保四年六月二八日太政官符により出雲孝忠が国造に補任されていることと矛盾し、リストのこれ以前のものは偽文書である。それ以降のものについても、国造家の家譜と一致する以上の根拠は確認できない。
 当ブログでは出雲宗孝は一族内の新興勢力として出西郷の開発により台頭して、杵築大社神主となり、続いて従来の一族に代わって国造職を得たとする説を示した。また、久安元年の遷宮が終了して間もなく、内蔵忠光が中心となって所領を日野実光・資憲父子に寄進して杵築大社領が立券されたとの説も示した。まさに上記に関する情報を消し去るための久安五年の文書焼失であり、実際にあったかどうかは不透明なものと考える。

平範家とその子孫2

 親範は久安四年正月から保元元年正月まで伯耆守を務めたが、その後高階仲経に交替している。親範は保元二年一〇月正五位下に除されたが、造営の賞を伯耆守仲経から譲られたためであった。仲経の系図上の位置は確認できないが、母方である高階氏の関係者であろう。長寛二年正月に蔵人頭、翌三年正月に参議。子基親は仁安元年(一一六六)八月に伯耆守を得替した後は承安二年二月には中宮大進、安元元年一二月には蔵人と高倉天皇並びに徳子に仕えたが、治承三年一一月の平氏のクーデターで解官された。平家の都落ち後の寿永二年(一一八三)一二月には還任し、建久元年(一一九〇)一〇月には四〇才で従三位兵部卿に補任され公卿となった。基親の没年は不詳だが、建保二年二月一七日付の親範置文に署判しておらず。これ以前に死没していた。父親範は八四才であった承久二年九月に死没している。
 範家-親範-基親が伯耆国における庄園成立に関与している。元仁元年の宣陽門院領目録には波積庄、久永御厨、矢送庄、宇多河東庄がみえるが、いずれもこの一族が成立にかかわった庄園である。
 宣陽門院領久永御厨は後白河院の長講堂領を継承したものであるが、伊勢神宮の御厨としての性格も持っていた。建久三年の給主(預所)は大宰大弐藤原範能であったが、その室である範家女子を介して範能が譲られた可能性が高い。承安四年(一一七四)には若狭国の若狭時定による押領を久永御厨が知行国主平時忠を通じて訴え、後白河院の評定で対応の協議がなされている。鎌倉末には久永御厨内大久保保が勧修寺経顕の子経方が譲られている。同じく宣陽門院領としてみえる稲積庄については上賀茂神社領としてもみえ、税の一部が納められていたと思われる。正治二年二月二八日吉田経房処分状では、親範から譲られた稲積庄が葉室光親に譲られたが、光親が承久の乱で後鳥羽による倒幕に反対したにもかかわらず処刑されたこともあってか、元仁元年(一二二四)の領家は光親の叔父である葉室定頼であった。
 矢送庄は建保二年二月十七日平親範置文案では親範と吉田定経との間に生まれた中納言典侍局経子(葉室光親室)に譲られ、その年貢の一部が親範の三ヶ寺の布施料に宛てられた。同じく宇多川東庄は三ヶ寺の寺僧に付けられた。

平範家とその子孫1

 平範家は因幡守として赴任した際の詳細な記録を記した日記の筆者として知られる時範の孫である。時範は藤原師通の家司を務めた実務家であったが、その子家親以降は公卿となっている。家親は、鳥羽・崇徳両天皇の蔵人となり、待賢門院判官代を務めているが、保元の乱の影響は受けていない。紀伊守・淡路守を歴任した後、保延二年(一一三六)に五〇才で参議となり、康治元年(一一四二)から二年は大宰大弐を務めている。藤原為房の娘を室とし、生まれたのが範家であった。
 範家は藤原清隆の娘を室とし、生まれたのが親範であったが、その姉妹には為房の孫吉田経房の室となった娘もいた。清隆は実親より四才若いが、永久四年には院分国であった紀伊守となるなど、鳥羽院との関係を有し、崇徳天皇の即位と同時に昇殿を認められ、天治元年(一一二四)には待賢門院別当となった。嫡子光隆を出雲守として知行国主を務める一方で大国播磨守も務めている。保延五年に近衛が誕生し立太子されると春宮亮・蔵人頭となる一方で、成勝寺造営の功で正四位上となるなど、鳥羽・待賢門院・崇徳・近衛の四者と関係を有した。過去に述べたように、鳥羽と崇徳の対立は近衛の死以降である。
 範家は二三才であった保延元年(一一三五)末から永治元年(一一四一)末まで二期八年相模守を務めている。久安四年(一一四八)正月には範家の嫡子親範が一二才で伯耆守に補任された。父範家は三五才であったが、正五位下でしかなく、祖父実親は同年二月に出家し一一月に死亡している。父範家が知行国主ではあったであろうが、母方の祖父で参議であった清隆がバックアップしていたと思われる。清隆は久安五年には権中納言となり、次いで大宰権帥を五年間務めている。範家は保元の乱後に後白河天皇のもとで蔵人頭となり、同二年に従三位(非参議)となり、同四年三月一三日に出家し、応保元年九月七日に四七才で死亡している。同年四月一七日には清隆も七二才で死亡。
 保元三年四月に親範の嫡子基親が八才で出雲守となり、翌平治元年(一一五九)閏五月には源光宗の跡の伯耆守に補任されている。出雲守は母方の曾祖父高階泰重との関係であろうか。二二才であった親範(一四才差でしかない)は前年の保元二年一〇月二二日に正五位下となり、三年二月に左少弁と皇后宮大進(統子内親王立后)に補任されている。年齢も官職・官位もギリギリではあるが親範が知行国主であったと思われる。同日に皇后宮権大進を兼任したのが親範の姉妹を室とする一七才の吉田経房で、皇后宮権少進に補任されたのが一二才の源頼朝であった。こうした関係を背景にしたのか、基親の娘は九条頼経の女房として鎌倉へ下向後、北条重時の後室となっている。

2018年5月29日 (火)

宇多川東庄領家平信輔

本日は図書館で確認するはずであったが、八時半すぎからインターネットの接続ができなくなり、その対応に追われて、図書館には行けなかった。明日こそである。メガエッグを利用しているが、ルーターが異常を表示して赤く点滅しており、サポートに電話使用としたがおかしい。IP電話もルーターに接続しており、電話もできなくなった。仕方なく、スマホでかけるが何度かけても話し中でつながらない。しばらくすると、メガエッグで接続できないとの電話が殺到しているので、後でかけてほしいとの音声がながれた。スマホはふだんWiFiのみで接続しているが、それを解除してネットにつなぐと、接続不能となったのは一七万軒に及ぶと表示された。当初はルーターが故障したと思ったが、プロバイダーの不具合であった。パソコン通信の時代にも、通信不能となり機械を買い換えたがかわらないので、電話したら、プロバイダーの問題で、結果として無駄な支出をさせられたことがあった。

  建治二年一〇月一七日吉田経俊処分帳では経俊領がその男子春宮大進俊定(母は平業光女子)、治部大輔経継(同母)、大夫経世(同母)、前美濃守俊氏(母不明、長兄ヵ)の四人とともに、二位中将(西園寺実平)、堀河中納言(具守)、勘解由次官(平信輔)、伊古に譲られている。最後の伊古がどのような人物かは未確認であるが、三条女房の所領を譲る契約が結ばれ、これを経俊が安堵した形となっている。三条女房とは三条実平の子で亀山院大納言典侍と呼ばれた女性であろうか。処分帳には経俊と室である業光女子とともに右衛門佐が署判を加えている。『鳥取県史』では坊城俊忠との注を付けているが、該当者がみあたらない。俊定は春宮大進とともに右衛門佐を兼任しており、俊定に比定すべきである。
 『尊卑分脈』では経俊の子として中納言貞平の室となった女子がいたことを記すが、これが西園寺実平の誤りであろう。実平は公基の子で建治二年に権中納言に補任されたが、翌年出家している。堀河具守も経俊女子を室としている。
 伯耆国宇多川庄を譲られた平信輔は平高輔の子である。高輔の母は三条公俊女子で、高輔女子が五辻忠継との間に生んだのが後醍醐天皇の母忠子(1268-1319)で、信輔女子が後二条天皇妃となる。嘉暦三年一一月八日坊城定資(俊定の嫡子)処分状にみえる故五辻禅尼は元応元年(一三一九)に死亡した忠子であろう。忠子の母は信輔とは兄弟である。信輔と経俊の関係を示す史料は未確認であるが、建治二年には二人とも蔵人であり、やはり信輔が経俊女子を室としたのかもしれない。
 春宮亮経顕は坊城俊定の孫であるが、勧修寺を相続した。忠子分加賀国井家庄年貢二〇〇貫を経顕が譲られていたが、父資定領である井家庄全体を譲られたため、年貢二〇〇貫は御阿賀分(関係不詳)となった。一期分でその死後は定資の子経量分とされた。

2018年5月28日 (月)

建久元年遷宮の期日

 建久元年遷宮の期日については、六月二九日とする建久二年在庁官人等解と一〇月一八日とする承久二年遷宮年限例注進があると述べてきたが、「北島家譜」を眺めていたら、後者の引用部分には「六月十八日」と記されていた。これでも一一日の違いがあるのは不可思議であるが、びっくりして『平成の大遷宮 出雲大社展』の図録で原本の写真を確認してみると、やはり「六」としか読めない。『大社町史』の史料編で確認した後に、『松江市史』を確認すると、こちらは「十」であった。
 『松江市史』では北島家文書の原本校正の初校を担当したので、「なぜチェックできなかったのか」とさあ大変である(二校は互いに担当を代えて行う)。原本校正といっても実際には原本を見ることができないので、県立図書館所蔵の①北島家文書の影写本(大正期に作成)、②『出雲国造家文書』、③『鎌倉遺文』で確認をしたはずである。本日は月曜日で県立図書館は休館日なので、とりあえず所有する『鎌倉遺文』をみると「十」となっていた。明日のところで、①②について確認することとする。『大社町史』では建武三年の国造孝時申状の土代で痛い目にあったことがあり、こちらは自分の担当ではなかったが影写本で確認したことは覚えている。原本の写真は図録で初めて見た(これも記憶だが、図録は二〇一三年四月刊行なので、同年三月刊行の市史原本校正時に見ることはできない)。
 土代については「如右大将家建久三年七月廿<三日御下文者、可早任領家前中納言家解文、>以資忠為惣検校職事」のうちの< >内部分が『大社町史』の翻刻では欠落していたが、写すさいの誤りとしか考えずに、頼朝の下文二通を復元して、通史編で鎌倉時代の杵築大社を担当していた西田友広氏にメールで送るという、今からみれば冷や汗もののことをしていた。しばらくして自分で気づいて唖然としたので、『松江市史』ではこの土代については心して行ったのだが。とりあえずは明日、この記事の補足として結果を記す。『松江市史』の校正は『大社町史』に収録されたものは一太郎で作成した大社町史のファイルをチェックする形で行ったが、このやり方は効率的ではあるが、以上のような危険性もある。
  確認の詳細は本日のブログ参照。結果としては、②は「十」であり、①影写本には収録されており、「十」と誤読する余地はなく「六」と記されていた。

2018年5月27日 (日)

鎌倉初期の出雲国守護2

 『大山寺縁起』には佐々木四郎左衛門尉高綱が山陰道七ヶ国を給わって下向した際に、伯耆国大山権現の祟りのため重病となり、なんとか一命をとりとめると、自らの等身地蔵を神殿に安置し、建久二年二月三日には三町田を寄附したことが記されている。佐々木氏系図に備前・安芸・周防・因幡・伯耆・日向・出雲等拝領と記すのとは異なっている。実際に守護に補任されたことが確認できるのは長門国であり、隣国周防もその可能性が高い。この山陰道以外の二ヶ国に、因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐の五ヶ国を加えたものではないか。建久四年一二月に配流を許された佐々木定綱が長門・石見の守護と隠岐の国地頭に補任されているが、その前任者が高綱ではなかったか。前述のように長門については確認できる。
 因幡国については大江広元が因幡守であった際の目代が大井実春であり、守護(惣追捕使)を兼任したのではないかと佐藤進一氏が推測した。文治元年六月二九日に広元が因幡守を辞任したことで、守護が交替した可能性がある。伯耆国については国御家人である金持氏が鎌倉初期から守護であったとの説があるが、金持氏は北条氏との関係で守護に補任された東国御家人である。大山寺縁起の記事は決して矛盾しないのである。
 出雲国については因幡国と同様に、出雲守藤原朝経の目代に東国御家人兵衞尉政綱が補任されており、大井実春と同様、守護を兼務していた可能性が高い。その政綱は奥州藤原氏のもとに逃れていた義経との結び付きを指摘され、幕府の派遣した役人に引き渡された。これにより守護は交替し、高綱が守護に補任されたのではないか。『京極家譜(丸亀家)』には建久元年二月一五日に野木(乃木)村に高綱が後の善光寺につながる御堂一宇を建立したことが記されている。
 山陰道の五ヶ国について確認したが、出雲国と伯耆国の守護に高綱が補任された可能性は高い。他の三ヶ国についても前後の時期を加えればその可能性はあるのではないか。高綱の出雲国守護在任の下限は建久六年であり、一方、安達親長は建久八年には但馬国守護であったことが確認出来る。高綱出家を受けて安達親長が出雲国守護に補任されたと考える。以上、鎌倉初期の出雲国守護は兵衞尉政綱-佐々木高綱-安達親長と受け継がれ、承久の乱京方により親長ば没落し、佐々木義清が隠岐国とともに出雲国守護に補任された。

鎌倉初期の出雲国守護1

 承久の乱以前の出雲国守護については、安達親長が承久の乱の時点の出雲国守護ではないかとの推定がなされているのみであるが、これをもう少し深めていきたい。ただし、守護に関わる職の名称についてはここでは考慮せず、守護の名称を使用する。
 出雲国守護の在職を示す史料は康永二年三月一六日出雲孝長和与契約状の冒頭の文書目録に「守護人親長より貞清ニいたるまて代官□□□□正員状ハうせて候やらん」とあることによる。その示すところは、出雲大社に守護から一定程度の文書が発給されるようになったのが親長の時代であるとの意味である。守護人親長とは建久八年に但馬国守護に現任していたことが確認できる安達親長であるとの佐藤進一氏の推定は妥当であろう。実際に幕府の文書としては、建久三年に頼朝が内蔵資忠が領家から杵築大社神主に補任されたことを安堵する袖判下文と政所下文を出しているが、これはその緊密な関係を背景に頼朝が御家人である資忠に与えたもので、特殊な文書である。
 これに対して幕府文書で初見となるのは元久二年四月二二日関東下知状であり、出雲国惣社神官等が大草郷地頭代官家重による狼藉を訴えたのに対して、守護が両者から聞き取りを行い対応するように命じている。この文書により「守護所」ならびに「守護」の存在を確認することができる。一方、国造の御家人化は承元二年九月六日将軍袖判下文によって国造孝綱が大庭・田尻保の地頭に補任されたことにより確認できる。地頭であったとまでは言えないとの意見もあろうが、承久元年一一月一三日関東下知状のように、国造が地頭に補任されていたことを前提とする偽文書が作成されている。幕府と関係の深い内蔵孝元だから国内で数箇所の地頭に補任されたとの意見に対しては、庄園領主や国衙の了解なしには実現しないことを確認する。
 文書目録の「守護人親長」の文書とはこの元久~承元~承久三年にかけての文書を示していよう。この親長以前の守護の文書は、杵築社に対するものはあっても、国造に対するものはなかったことになる。
 すでにみたように、建久元年の正殿造営は主に内蔵資忠が神主として推進し、遷宮後も資忠が神主に返り咲いていた。これに対して国造自身が幕府からの文書を発給されたのは承元二年が初めてであった。建武三年作成の国造孝時申状には頼朝下文に対する土肥次郎施行に続いて右大臣家御教書が記される。後者は承元五年のものであろう。一方土肥殿施行状とは、後に作成された①文治二年正月日付の平朝臣下文であろうが、守護ないしはそれに関係する称号を付けて呼ばれてはいない。さらに②二月九日付平朝臣某下文で施行されているのも不可解であり、この土肥殿施行状を根拠として土肥実平が守護ないしは惣追捕使であったと立論することは無効である。頼朝下文としては③元暦元年一〇月二八日付のものがあり、これを④一一月二九日に平朝臣が伝えているが、その花押は土肥殿施行状と呼ばれる文書の花押と同じである。この4通を比較すると①のみ「杵築大社」と呼び、他の三通は「杵築社」と呼んでいる。また、末尾の文言が①のみ異例であり、4通すべてが後世に作成された偽文書であるが、②~④の三通が作成されていたその上に①が作成された可能性が高い。

2018年5月26日 (土)

鎌倉後期の杵築社遷宮新3

 後醍醐天皇が即位した文保二年の翌三年正月には一二月二五日関東御教書に基づく造営を終えるよう、六波羅探題が国造に伝えている。だだしそれでも造営は進まず、元亨三年三月五日関東御教書で、国衙正税半分を寄せて造営せよとの命令が実行されなかったため、当座は費用の経替の許可を求めた国造の申請に任せて造営せよと幕府が命じて、ようやく翌四年に造営が完了し、翌々年二月一六日に遷宮が完了した。これに対して、嘉暦二年九月五日関東御教書が出されていることから、本当に造営・遷宮が行われたのか疑問であると述べたが、これは仮殿の先にある正殿造営に関するものであった。なお、正殿造営が模索されていたのである。この頃作成されたとみられる杵築造営注文(北島家文書)では、宝治の正殿の次に弘安一〇年の仮殿遷宮を飛ばして正中の仮殿遷宮を記している。正殿遷宮に進まなかったためであり、正中の仮殿遷宮から今度こそ正殿遷宮に進めたいとの意思を示すものであろう。ただし、遷宮と遷宮の間の年数にはズレがみられる。これに次ぐのが前述の建武元年の後醍醐天皇綸旨である。
 文永七年正月の焼失以来の造営で、本来の仮殿とは異なる耐久性を前提とした仮殿が造営されるようになったが、その規模は小さかったため、本来の規模の正殿を目指す動きがあったことを確認した。当然、正殿の具体的規模を示す史料があったことを前提として目指したものである。正殿式と正殿造という二つの用語が近世になって生まれたとされるが、少なくとも正殿式という言葉に相当する具体的なものがあったことは確実である。表題について十分系統的理解ができていかなったが、今回ようやく目の前の霧がはれたことを実感した。

鎌倉後期の杵築社遷宮新2

 両国造家の関係は固定的ではなく、お互いの訴えを受けた守護次第で微妙に変化している。永徳元年四月二日には守護山名義幸が両国造家に対して、仮殿造営と遷宮が国造職をめぐる対立で遅れているとして、先ずは遷宮を終えた後に裁判の判断を行うことを伝えている。これをうけて北島資孝が元亨三年七月二五日の棟上等仮殿遷宮に関する記録を注進している。
 一五世紀初め頃に作成された杵築大社造営覚書(佐草家文書)は、宝治二年の遷宮までの記事には疑問点がみられるが、文永七年正月二日の本殿焼失以降の記事は他の史料と整合性がみられる。
 弘安一〇年に仮殿遷宮が行われたが、その仮殿が正安二年一〇月四日に焼失したことを記している。永仁末年に至るまで、正殿遷宮が模索されていたが、実際には国衙無沙汰により進んでいなかった。そうした中、正安二年閏七月五日にはそれまでの造営奉行に代えて、守護佐々木貞清と国衙の最有力在庁官人の末裔である朝山時綱と多祢頼茂を奉行に補任したとして国造に対して彼等と相共に造営の沙汰を行うことを命じている。それが仮殿が失われたことにより、造営が急がれることになり、正安三年一二月五日には幕府が神主に旧規に任せて造営を遂げるよう、具体的命令を出している。翌年四月一〇日には造営料として出雲国の反別三升米と材木を宛てて功を終えるように幕府が神主に命じている。
 その後、嘉元元年八月二二日には院宣と国宣を示して沙汰を行えとの知行国主西園寺公衡の命令が側近である前石見守安倍某により国造に伝えられたが、実際の造営は進んでいない。延慶元年一二月一〇日には幕府が、造営奉行である守護佐々木貞清の申状を受けて、造営記録を進覧するよう、国造に命じている。次いで正和元年五月二〇日には国造に造営について確認すべき点があるとして文書を携えて上洛することが命じられている。貞清の娘が前国造泰孝の後室となっていたが、その子(孝景)が幼少であるため、当座は異母兄の孝時が国造となっていた。同世代と思われる孝時と貞清の関係も微妙なところがあったのであろう。同時に延慶二年以降は国造と領家に復活した松殿兼嗣の雑掌との間の裁判も行われていた。

鎌倉後期の杵築社遷宮新1

 以前の原稿を修正・補足する。弘安一〇年(一二八七)に仮殿遷宮が行われたが、その構造は本来の短期間用の「仮殿」ではなく、長期間の耐用を前提としたものであったと思われる。一方で本来の正殿造営を目指す動きはあったが、無沙汰が続いて実現しないまま、仮殿が老朽化し、次の仮殿造営が始まったのだろう。それが元亨四年(一三二四)に造営が完了し、正中二年(一三二五)二月一六日に仮殿遷宮として行われたが、やはりなお正殿遷宮を目指す動きが継続していたのだろう。建武元年七月五日後醍醐天皇綸旨で先例に任せて造営沙汰を命じているのも、その流れのものであろう。
 その後、南北朝動乱と国造家の分立という新たな状況が生まれたが、正平一二年(一三五七)には国造北島貞孝から仮殿造営と三月会について申請があり、それを認めて命令する後村上天皇綸旨が出された。前回の元亨四年の造営完了から三四年が経過しており、次の仮殿造営がすでに開始されていたのだろう。実際には千家方との対立もあり、南朝方の守護による施行も難航していた。
 貞治三年には山名時氏が幕府に帰参し、京極高氏が出雲国守護としての実権を回復した。それに対して翌四年一〇月北島資孝申状のみが残っている。次いで応安元年九月九日には室町幕府将軍家御教書により仮殿造営について守護に先例に任せて功を終えるように命じたことが「当社神主」に出されている。現在は出雲大社文書として残されているが、これは北島家から寄進したものである。同日に守護佐々木高秀に命じた文書は千家家から寄進したものであるが、これは杵築大社政所に残されたものである。千家文書の中心は政所に残されたものであることに注意が必要である。これに先立つ貞和六年五月二五日足利義詮御判御教書は三月会の復活・興業を命じているが、守護宛・国造宛の両方とも千家家から寄進した出雲大社文書であるが、国造宛は千家方に守護宛は政所に残されたものであろう。この時点では三月会は千家方が国造として行い、造営については北島方が神主として担当したのだろう。
 これに対して応安三年八月二八日杵築大社神官等申状は千家方神官が国造兼神主をめぐり千家孝宗を支持したものである。この申状から、現在北島家に残る文書の多くは本来千家方に渡されるべきものであったとの説が出されているが、これこそ行間を読まずに字面のみにとらわれたものである。前述のように、一旦は孝景が千家孝宗と組んで北島貞孝に対抗しようとしたが、結果的に文書は清孝死後の国造兼神主となることが決まっていた北島方に渡されたのである。

2018年5月24日 (木)

三隅氏と福屋氏の滅亡2

 しかし、大内氏が毛利氏に滅ぼされたため、弘治三年六月には益田氏が毛利氏の支配下に入ることで合意した。近世末の記録には毛利氏が益田氏攻撃を開始すると、益田氏は七尾城を出て三隅・高城の籠城して抵抗したことが記されるが、事実とは認めがたい。
 永禄二年には毛利氏による小笠原氏攻が本格化し、尼子晴久が再度の出兵を行ってこれを救援したが、江川の渡河を毛利氏方によって妨げられ、同年八月には小笠原長雄が毛利氏に降伏した。この間、福屋氏は毛利氏による小笠原攻に参加する一方で、毛利氏の出兵を尼子氏に伝えていた。小笠原長雄の母は福屋氏の出身であった。ところが小笠原氏の降伏でその事実が露顕したため、福屋氏領の一部が没収され、小笠原氏に与えられた。
 福屋氏内部でも親戚関係にある小笠原氏攻撃開始時には異論があったが、福屋隆兼は重臣重富氏を九月二三日に滅ぼし、一二月から小笠原氏との合戦を開始している。この時点では陶氏派の小笠原長雄に対して、尼子氏と結ぼうとした福屋隆兼がこれを攻撃したというものであったが、新宮党討滅と陶晴賢の滅亡により状況は一変した。福屋氏は毛利氏と結び、小笠原氏は尼子氏と結んだのである。
 所領を削減された福屋隆兼は再び永禄四年(一五六五)半ば過ぎには尼子氏と結んで状況の打開を図った。ところが、毛利氏と尼子氏の対立に対して、将軍家による講和が進められていた。これにより福屋隆兼が石見国に派遣されていた尼子氏家臣と結んで反毛利氏の活動を開始したにもかかわらず、永禄三年末に死亡した晴久に代わって当主となっていた尼子義久は、尼子氏本体の石見国派遣を行わなかった。このため、軍事的に劣勢であった福屋氏の反乱は毛利氏により短期間で鎮圧され、福屋隆兼は国外に脱出し、その家臣は毛利氏による攻撃で壊滅的打撃を受けた。
 この福屋氏の挙兵に益田氏への不満を持つ三隅兼忠が呼応したようである。福屋氏の反乱を尼子勝久らによる尼子氏再興戦に連動したものだと記す軍記物では、元亀元年に三隅氏惣領と周布氏の一族がこれに呼応して反乱を起こして毛利氏が鎮圧したと記すが、永禄五年一月には益田氏が板井川で合戦を行っており、その相手は三隅氏であった。同時期には長門国磯之城でも益田藤兼の家臣が一〇名が討死しており、長門国内でも反毛利氏の動きがあった。福屋氏反乱の余波は継続しており、永禄六年正月に比定される毛利元就書状(宛所欠)では、福屋氏一族の刑部大輔が益田に退いてきたことに対して、その身を止めておくように伝えている。益田氏の一族として石見国中西部の有力国人であった三隅氏と福屋氏惣領は滅亡し、その一族が毛利氏の家臣となっていく。三隅氏の場合は隆周の弟で、兼忠の叔父である四八才の寿久が当主となり続いていく。

三隅氏と福屋氏の滅亡1

 享禄五年(一五三二)九月二八日に三隅興兼が益田尹兼に契約状を提出している(益田家文書)。背景は不明だが、三隅郷を離れていたのを尹兼の仲介で帰郷が可能となった。この頃、俣賀氏一族の梅月氏が三隅氏の高城に長期間在番していたことを大内氏奉行人奉書で賞されているのはこれに関連するものであろう(梅月氏古文書)。享禄元年一二月二〇日に大内義興が五三才で死亡し、二二才の義隆に代替わりする中、三隅氏の行動に問題があり、大内氏の攻撃を受けて、三隅城が占領される事態となったことが分かる。興兼は尹兼の扶持を受けるとともに奉公するとして帰郷を許された。疋見・道河・丸毛・板井河を進めているが、丸毛については岡見の替と述べている。
 続いて興兼の嫡子孫次郎隆周が天文七年(一五三八)一〇月一六日に益田尹兼に対して、大内氏の裁判により一族の縁が確認されたとして、津毛・疋見・丸毛については興兼の約束を改めることはしないとしている。この時期、益田氏領伊甘郷や三隅氏領であった小石見郷に尼子氏と結ぶ福屋氏の勢力が及んでいたが、尼子氏による安芸吉田攻が失敗したことで、福屋氏は路線変更を余儀なくされた。
 天文二〇年(一五五一)九月に大内義隆が陶隆房(→晴賢)に滅ぼされたことで、石見国の状況は混沌とし、国人の対応も毛利氏派・陶氏派・尼子氏派に分かれた。福屋氏は姻戚関係にある陶氏方の小笠原氏と手を切り尼子氏と結ぼうとしたが天文二三年一一月に新宮党討滅事件が起きて尼子氏の影響力が弱まると、毛利氏と結んだ。次いで毛利氏が弘治元年(一五五五)一〇月の厳島の戦いで陶氏を滅ぼすと、陶氏方であった国人に動揺がみられたが、邑智郡の小笠原氏と迩摩郡の温泉氏は尼子氏と結んだ。
 これに対して毛利氏と結ぶ福屋氏・佐波氏との間で合戦が行われたが、一旦は弘治二年に尼子晴久が出兵して、八月末の忍原の合戦で毛利氏方を破り、石見銀山と山吹城を掌握した。これに対して毛利氏は陶晴賢が傀儡として擁立した大内義長を弘治三年三月に滅ぼして防長を掌握すると、石見国への進出を本格化させた.
 益田氏当主藤兼は陶隆房派の中心として天文二三年から二四年にかけての吉見氏・津和野城攻に参加したが、一方では三隅氏と対立し、天文二四年二月と九月には三隅氏の本拠高城や支城鐘尾城を攻撃し、三隅領を支配下に置いたと見られる。しかし陶晴賢が滅ぼされたことで、反益田氏の動きが再燃し、弘治二年六月から一〇月にかけて益田氏と三隅氏との間で合戦が行われた。弘治二年八月二二日の三隅二宮大明神への寄進状には三隅隆周の子兼忠の袖判と三隅氏家臣一〇名の名が記されており、翌三年一一月の同神社造営も兼忠が行っており、三隅氏はなお益田氏の軍門には降っていない。尼子氏が石見銀山を攻略した直後の九月三日には反毛利氏との立場で一致する尼子氏から勝利の報が益田氏に伝えられ、一一月二六日には尼子氏と益田氏の間で協力関係が結ばれたことが確認できる。

行間を読む

 「行間を読む」とは日本語でしばしば使われる言葉だが、その意味は非常にあいまいで、読み間違いや、そもそも何が正解か不明なことも多い。わかりやすい例として、しばしば国語の入試問題でその手の問題が出題されるが、原典を書いた作者には正解が選べないことがあげられる。昨今のアメフトの問題でも「行間を読む」問題が焦点となっている。「忖度」も同様の範疇に入ってしまった。これまた、正解がない言葉である。
 歴史研究では行間というよりも、史料が取捨・選択して残されており、残されなかった史料をいかに復元しつつ解明することが大切であるが、ここでも何度も述べた「その説が100%正しいかは証明できない」「明らかな根拠が残っていない」との批判がままみられる。これまたかなり以前に述べたことがあるが、天気予報では降水確率が示されるようになった。これにより雨傘などの降雨への対策は取りやすくなったが、場所の問題も微妙で、それを参考に自分で雨雲の動き(予測)を確認して対応しないといけない。よくあるのが、ここでは降らないと思ったのに降った場合である。
 話を戻すと、論文を書く際にその説がどの程度成り立つ可能性があるかを執筆者が明示することで、誤解を解いたり、建設的な議論が展開できる。可能性の%そのものも日々見直されなければならない。自ら関係資料を読んだことのある人なら、論文で示された説に対して根拠ある賛否を示せるが、そうでない人が読んだ場合に、可能性が提示してあれば、鵜呑みにすることは少なくなると思われる。誤った説も繰り返し説かれるとあたかも正しい説となってしまう。これを変えるのには大変はエネルギーが必要である。話が飛ぶが、ニュースで「訴状が届いていないのでコメントできない」との記事のフォロー記事を読むことはまずないので、言い逃れの有力手段となっている。
 防衛庁のイラクやスーダン派遣の日報問題と文部科学省の文書改ざん・廃棄疑惑に関して資料が公開されたが、第三者ではなく当事者が公開しているので、本当にこれですべてかとの疑問が常につきまとっている。実際に、肝心な時期の情報が両方とも欠落していることも指摘されており、なお隠蔽疑惑が残されている。それは日本大学の関係者の記者会見でも同様であった。これについては刑事事件となる中で、関係者への聞き取りがなされるが、問題なのは公文書の問題である。
 二〇一四年の国立公文書館の職員数が、日本四七人に対して、米二七四〇人、独七九〇人、英六〇〇人、仏五七〇人、韓国三四〇人という内閣府データが表にされている。このことをほとんどの「国民」は知らされていない。日本における都道府県の公立文書館間の職員数にも図書館と同様に大変な格差がある。
 話は変わるが、社会保障費の割合が高まることが危惧されており、一方では生活保護の不正受給の多さ?とその不十分さという両方面からの意見が出されている。どちらの立場に立つにせよ、欧米諸国と比べて日本では受給者の捕捉率の低さ(本当に必要な人が受給できていない、補足率は二割以下とされる)を踏まえて議論しないと意味がない。

 

2018年5月22日 (火)

丹後国志楽庄

 平治元年(一一五九)閏五月日宝荘厳院領注文(東寺百合文書)に一二ヶ所の庄園の一つとして丹後国志楽庄がみえ、領家は大宰大弐平清盛であった。宝荘厳院は鳥羽院の御願寺で長承元年(一一三二)に建立され、そこに庄園が立券・寄進されたと考えられ、その後美福門院領となったと思われる。平家の滅亡により没官領として東国御家人が地頭に補任された可能性が高い。建久六年には後藤左衛門尉基清が地頭であったが、雑掌の訴えにより三分の一が没収され、地頭が交替している。
 地図をみると、南側から順に志楽川、朝来川、河辺川という三河川沿いに耕地が広がり、中心は志楽川沿の春日村であった。これに対して朝来村が三分一方とされた可能性が高い。河辺村は春日村とともに三分二方とされたと思われる。
 承久元年九月二三日には志楽庄安永名内田一反が吉永という人物によって西願寺に寄進されている。同じ日に西願寺に二二名の住人が連署して田一一〇歩、畠二五〇歩を寄進しているが、そこには西願寺について聖朝将軍家公私惣願之祈祷所と記しており、この時点で志楽庄内が関東御領であった可能性もある。
 春日村地頭であった後藤基清は承久京方で所帯を没取され、新地頭が補任されたはずであるが、その名は不明である。朝来村については元亨二年八月二五日に毛利左近大夫が朝来村内景守名を馬三郎入道に宛行っており、毛利時親の嫡子貞親が地頭であったが、毛利氏が朝来村を獲得した時期は不明である。あるいは長崎泰綱の娘亀谷局領を譲られた可能性もある。
 文永二年(一二六五)一一月日若狭国大田文には同国田井浦について、関東御一円御領と注記した上で、さらに丹後国志楽庄に押領されていることが記されている。田井浦が得宗領であったことからすると、それと境を接する志楽庄河辺村も得宗領で、その関係で田井浦の庄園領主の権限が押領されて関東一円領となったのではないか。なお現在は田井浦は福井県ではなく京都府に属している。
 元徳二年正月二八日には後醍醐天皇が宝荘厳院を東寺に施入し、庄園は東寺領となった。東寺による支配の状況は史料を書いており不明である。
 幕府滅亡により、得宗領であった志楽庄春日村・河辺村は朝廷が没収した可能性が高い。朝来村地頭毛利貞親も謀叛への荷担の疑いで京都で拘束されており、やはり没収された可能性が高い。元弘三年六月には志楽庄内鹿原山金剛院美福門院御願所に対して庄内の地頭下司などが自由に山木を切り取ることを禁止した禁制が某によって出されている。
 暦応四年一〇月四日に足利尊氏が志楽庄地頭職を西大寺に寄進しているが、醍醐寺分と北禅院造営料所分は除くとしている。春日部村が西大寺に寄進され、朝来村と河辺村は西醍醐寺に寄進された。

佐橋庄南条の譲与

 毛利元春申状によると、了禅は佐橋庄南条を五人に対して譲与したとする。問題は五人とは誰で、その時期はいつかという事である。その一人が貞親の子孫太郎親茂で七条中二条(庄屋条・加納条)を譲られている。また、元春の主張によれば建武四年に譲与が行われたことは確実である。すべて了禅の甥である甲斐入道の筆になるという。建武三年の譲状もあるが、それは甲斐入道がなお南朝方であったため、別筆である。この時点で幕府方であったのは了禅と師親(元春)のみであり、建武三年の譲状は師親宛のみであろう。ただし、元春は父親茂が、了禅が出家していない時親であった時期の譲状を有していることを認めており、これが建武元年の譲状となる。その対象は南条を譲られた五人であり、元春は含まれない。五人とは嫡子貞親の子宮内少輔入道と親茂、庶子四郎の子修理次郎と五郎の子二人である。
 当然、それに先立ち時親が嫡子貞親や庶子四郎と五郎に譲った譲状があったはずであるが、時親の子が母亀谷局が長崎氏の出身だということで謀叛への関与を疑われて拘束されたことにより、再譲与が必要になった。そして四郎についてはその子が修理次郎であることから貞親が右近大夫に補任されていたのと同様、修理亮に補任されていたはずであり、貞和三年三年八月二七日足利直義下知状にみえる毛利四郎は別人である。五郎については不明である。拘束されるとともに、三人の所領も没収された。吉田庄地頭職は花山院家祗候人美乃判官全元に与えられた。修理亮の所領とは近在を所領とする楠木正成が兵学を学びに通ったとの伝承の残る河内国加賀田郷であろう。
 毛利氏の中心所領である越後国佐橋庄は一四世紀初めの昭慶門院所領目録に室町院領の中にみえているが、大覚寺統の庄園であった。安芸国吉田庄にいた親茂が船上山で後醍醐に軍功を積んだことで没収を免れたと思われる。五人に譲られた南条七ヶ所のうち庄屋条と加納条が親茂に譲られたのはそのためであった。ただしそれは建武元年時点であり、建武四年の時点では親茂に吉田郷内が譲られていることから、南条における親茂分は減少した可能性がある。
 佐橋庄南条の毛利(毛利南条)氏の惣領は石曽祢殿と呼ばれた宮内少輔入道道幸であった。そのことは康正三年一一月二七日寄進状の中で南条駿河守広信が宮内少輔と北条氏が対立したことで、毛利南条氏と越後毛利氏の氏寺である専称寺の関係が途絶えたと述べていることからもうかがわれる。南条広信は庄屋条内の田を専称寺に寄進しているように宮内少輔の直系の子孫ではなく、親茂の子匡時・直広の子孫である。
 建武四年の時点では元春のみならず父親衡(親茂)、祖父貞親も安芸国に下向しており、貞親には吉田庄内だけでなく河内国加賀田郷も譲られ、次いで貞親は庶子近江守に譲っている。建武政権が没収した所領が幕府方となった毛利氏に返されたのだろう。

2018年5月20日 (日)

毛利北条氏について3

 北条氏惣領時元の後継者が経高なら北条高時との関係も推定できる。その子は晴良とするのものもあるが、関係史料が残っていない。そして孫である長広以降は、延広―広栄と名前に南条氏惣領の通字である「広」を付けるようになる。
 北条氏の氏寺である専称寺には応長元年八月二二日前丹後守大江朝臣寄進状写が残っているが、康正三年六月一九日丹後守大江広栄寄進状によると、前年に専称寺が炎上し代々の寄進状が失われたため、再度、判形を改めて寄進したとしている。田村氏は応長二年の寄進状の信頼性に疑問を呈しているが、広栄により作成された確実な文書の写である。同年一一月二七日には南条駿河守広信が庄屋条内の田を寄進している。そこには、以前からの寄進地であったが、南条氏惣領宮内少輔と北条氏が仲違いをした際に、南条氏から専称寺への寄進が途絶えてしまったことが述べられている。宮内少輔殿とは宮内少輔入道道幸であろう。当初は北条・南条氏ともに反幕府方であったが、幕府への帰参をめぐって対立が生じたのであろう。広信は親衡領庄屋条と加納条を相続した人物の子孫であろう。その名前からは匡時系ではなく直広系であろうか。 北条氏惣領が「広」の一字を使うのは、南条氏との関係である可能性が高い。

 以上をまとめると、越後毛利氏の全体の惣領は佐橋庄内北条を支配した基親の子孫であり、南条を支配した時親流では時親の嫡子貞親の子である宮内少輔道幸が惣領で、石曽祢殿と呼ばれた。これに対して南条内庄屋条と加納条を支配した親衡の子孫は庶子であった。ただし、道幸の庶子朝広系安田氏が生き残り、惣領北条氏が戦国期に没落する中、その保有する康応元年の義満袖判下文を入手し、現在に伝えたのではないか。安堵された毛利大膳大夫入道道依とは北条氏惣領であるとすべきである。その意味では佐藤・山田氏の説にも一理はあった。「大膳大夫」とは大江広元が補任された官職であり、その一族がこれに補任されている例は少なからずあり、法名に「道」の字を使う例も多い。田村氏の研究により前進した面もあるが、逆に後退したと言わざる面も少なからずある。新潟県立歴史博物館のHPの比定とともに再検討していただきたい。

2018年5月19日 (土)

都の雨に

 船村徹とちあきなおみの共通点として、そのベスト一〇を選んだ場合に、ある程度知っているファンとコアなファンではかなりの違いがみられることであろう。後者が選ぶ中には前者が知りもしないし、聴いたことの無い作品が含まれることが予想される。他の作曲者や歌手ではこのようなことは起こりえないであろう(オリジナルのヒット曲が少ない島津亜矢もカバー曲が入るか)。
 表題の「都の雨」は、「居酒屋「津軽」」とともに、コアな船村ファン、ちあきファンのベスト一〇には必ず入るが、前者にはほとんど知られていない作品で、作詞はともに吉田旺である。吉田はちあきのデビュー曲「雨に濡れた慕情」以来、喝采、「冬隣」、「紅とんぼ」などちあきの作品の最多作詞者である。船村と吉田コンビの最初の作品が何かは未確認であるが、初期の作品として一九七五年の舟木一夫のアルバム「暦」に収録された「津和野川」「迎え火」「兄・妹」があるのは確かであろう。
 先日、前川清の特集番組をやっていたが、その中で一九七六年の「東京砂漠」は異色の作品だと再確認した。作曲者はクールファイブのリーダー内山田洋である。その番組では「噂の女」も森進一のために作られた作品であったが、港町ブルースがロングランとなったために、発表の機会を逃しそうであったため、作曲者猪俣公章が前川に君のために作った曲だと嘘をつき、それを信じた前川が歌ったことが紹介されていた。
 「東京砂漠」は男女の愛とともに、まさに題名のように都会を描いた作品である。船村も出世作「別れの一本杉」以来、「望郷」をテーマとする作品を発表してきたが、最後の作品となった「都会のカラス」(村木弾)では都会を描いていた。「男の駅」(走祐介)も同様であろうか。「望郷」と「都会の孤独」は表裏一体のテーマである。
 表題の「都の雨に」は望郷と都会の両方をテーマとした作品で吉田旺作詞である。船村も吉田とは作品を作ったことがあったが、「東京砂漠」をモチーフとした新たな歌として吉田に作詞を依頼して完成したのが「都の雨」ではないか。この作品は自らが歌った作品を収録したアルバム「演歌巡礼」に収録された。誰でもない船村のための作品であった。ちあきなおみと鳥羽一郎がカバーしている。
 ちあきのコアなファンで、且つ演歌嫌いを自任していたファンがいつしか最も好きな作品にあげるようになったのが、これも吉田旺作詞の「居酒屋「津軽」」である。自分自身は矢切の渡しをカバーしてレコード大賞を受賞した細川たかしのアルバムに収録されているのを最初に聴いて、記憶に残こる作品(その歌詞が頭に残っていた)とはなったが、ベストな作品とは思わなかった。このアルバムは同名で曲を入れ替えたものなら現在も入手できるが、元のアルバムが復刻されるとよい。「冬隣」も言葉の意味を知らなかったこともあるが、変わった曲だなとの思いはあったが‥‥。ちあきの「居酒屋「津軽」」はアルバム「男の友情」に収録されたが、完成作品ではなく、テスト版というべきものを、レコード会社がちあき側の承諾を取らずに発売したため、ちあき側が反発して、短期間で販売中止とされた。それを聴くためには、そのアルバムを購入するしかない。あまり流通しておらず、オークションで入手するしかないが、簡単ではない。
 「居酒屋「津軽」」を最高とするファンが、これが船村―吉田コンビの最初の作品ではないかとの推測をブログでしていたので、そうではなく、それに先行するものとして舟木の三作品があることをメールで伝えたことがあった。「演歌巡礼」は一九七九年発売であるが、舟木のアルバムはその四年前の発売である。以上、「都の雨」という作品の前提として「東京砂漠」があったのではないかとの説を述べた。それにしても不可思議なのは、ちあきなおみが吉田旺の作品(カバーを含む)のみを収めたアルバム「三分劇」の中に「都の雨」が収録されなかったことだ。確かに、このアルバムで試みられた独自の編曲がそぐわず、原曲のギターがつま弾く編曲がベストとは思うが。

吉田庄地頭美乃判官全元

 建武政権における地頭職の安堵、没収、給与には恣意的な面が見られるが、毛利貞親の謀叛への関与疑惑により闕所となった安芸国吉田庄地頭職を与えられたのは美乃判官全元という人物であった。何故か「阿野全成―時元」との関係があると思い調べてみたが、情報は得られなかった。後醍醐天皇の寵姫として知られる阿野廉子も、阿野氏の女系の流れを継承するものとされる。三条公教の子滋野井実国の養子公佐(実父は藤原成親)と阿野全成の娘との間に生まれた実直が公家の阿野氏の祖となる。これとは別に阿野氏の流れを引く四条氏がいたことも「阿野庄長寿寺について」で述べた。
 実直の孫公廉は公卿にはなれなかったが、その子実廉は妹廉子が後醍醐の後宮に入ったことで、嘉暦三年(一三二八)には非参議三位となった。文保二年(一三一八)年、実廉の子季継は備後国神崎庄地頭として高野山三昧院内遍照院雑掌から訴えられて裁判が続いていたが、下地中分をするとの和与が成立している。神崎庄は文永年間頃には長井泰茂が領家兼地頭であったが、正和二年(一三一三)九月一四日には院宣により領家職が高野山金剛峯寺三昧院に寄進されている。長井泰茂の子孫が両職を没収され、地頭職は後醍醐天皇との関係から阿野氏に与えられたと思われる。廉子は正安三年(一三〇一)の生まれで、元応二年(一三一九)に一九歳で上臈として入侍し、間もなく寵愛を受けたとされる。その後、阿野季継が神崎庄地頭職を与えられたのであろう。
 話を全元に戻すと、武家の阿野氏が公家の阿野氏に奉仕していた可能性は大きいのではないか。そして史料をよくみると、全元は「花山院家祗候人」とある。花山院家といえば、毛利氏と後醍醐天皇で述べたように、毛利季光の娘で父の死後、兄弟の師継とともに花山院家で育ち、師継の室となり師信を生んだ女性がいた。後醍醐の母五辻忠子は花山院師信の養女として後宇多院の後宮に入っていた。美乃判官全元は廉子の実家である阿野家との関係で、後醍醐の母の養家である花山院家の祗候人となり、建武元年に吉田庄地頭職が闕所となった際に、毛利家の親戚である花山院家との関係で、これを与えられたのではないか。元春申状にも全元が「申給う」と記されており、働きかけの結果与えられたものであろう。そんなに無理な推論ではない気がするが、どうであろうか。
 なお河合正治氏は『安芸 毛利一族』の中で、全元について、後醍醐天皇の寵臣で、吉田庄領家である花山院家の祗候人であったと述べているが、この記述の根拠(特に領家)については今のところ確認していない。寵臣は花山院家、全元のいずれにかかる修飾語であろうか。 

毛利北条氏について2

 ただし問題なのは、毛利経光から佐橋庄北条を譲られた基親(基頼)流が惣領で、時親は庶子であることが確実なことである。本来は鯖石川中流域の「南条」が中心であったであろうが、地頭職を得た毛利季光以降、佐橋北条内「北条」や鯖石川下流域の開発が進み、中心が変わったと思われる。そのため、嫡子基親に佐橋庄北条が譲られた。田村氏の前提は成り立たないのである。そして毛利南条氏惣領は匡時ではなく、石曽祢を支配していた道幸―憲広である。通説や田村氏の説ではいずれも憲広が元豊と改名=同一人物とするが、関係文書を読むと、安田朝広(憲朝・常全)は嫡子房朝への譲状を作成する際に、舎兄である元豊に筆をとってもらったことしか確認できず、そこでみえる惣領石曽祢氏(憲広)と元豊は別人である。憲広・朝広兄弟の名前からすると、道幸の出家以前の名前は親広ないしは広親であった可能性が高い。
 話を本論の北条氏に戻すと、過去帳の記載から基親―時元―経高までは復元できるが、その子については情報が乏しいようである。その背景として、北条氏が反幕府方であったことがある。毛利親衡は越後から安芸へ遷る際に幕府方となった。越後国の所領は敵方が支配しており、有名無実であるとして、了禅が吉田庄内の所領を一期分として与えた。了禅の死の前後に師親は粉失状を作成したが、その証人として肝心な毛利北条氏惣領はみえない。越後にいた親衡が建武元年頃に了禅から譲られた際には、惣領毛利丹後入道慈元が証人となっているが、その時点では対立はなかった。越後に残った親衡の子を含む南条氏についても同様であった可能性が高い。

毛利北条氏について1

 毛利北条氏については、戦国期に滅亡したことにより譲状が残っていないため、氏寺専称寺に残された文書と過去帳の情報のみがその動向を知る手がかりとなる。一方では佐橋庄南条を支配した毛利南条氏との関係が問題となる。南条氏についても最終的に文書を残したのは鵜河庄内安田条を支配した庶家であるが、その中には康応元年六月二一日に将軍足利義満が佐橋庄地頭職を安堵した下文も含まれる。問題は安堵された毛利大膳大夫入道道依とは誰かということである。佐藤進一氏はこの文書を根拠に南条氏が北条をも支配していたと解釈された。一理はあるが、本来の惣領家の文書を入手した可能性が高い。
 南条は親衡が譲られた二条と、その兄弟並びに甥が譲られた五条に分かれる。一四世紀半ばにみえる「毛利宮内入道道幸」は毛利南条氏の惣領であり、南条内石曽祢条を支配していたが、新たに鵜河庄安田条を恩賞として与えられたと主張し、庶子修理亮朝広に譲り、この一族が文書を残した。これに対して嫡子についてはその名は不明とされてきたが、田村裕氏が示した憲広が正しい。そして田村氏は道依については、従来、朝広の嫡子元豊に比定されていたのに対して、毛利親衡の子匡時に比定した。田村氏が通説に対して示された疑問については、通説の当否は別として論者には全く理解できない。
 匡時は父から佐橋庄内と安芸国吉田庄内の両方に所領を譲られていたが、田村氏は最終的には吉田庄から佐橋庄に戻ったとした。また、その根拠として 明徳五年に匡時の弟直元の子元衡の所領である麻原郷に対して違乱に及んだ「大膳大夫入道道心」に注目し、これを大膳大夫匡時の関係者だとして、道依を匡時に比定された。田村氏が通説への疑問として示された点もそうだが、その推定も成り立たないと考える。道心はその後継者ではなく匡時本人とすべきである。
 元春申状により、親衡が与えられたのは南条内七条の内、庄屋条・かんのう(加納)条の二条である。加納については地名が残り場所の特定ができるが、庄屋条については不明である。田村氏は庄屋条が南条の中心地だと推定されている。庄屋とは庄家が所在したことから付けられた可能性が高い。佐橋庄南条内の「南条」には佐橋神社があり、ここに佐橋庄を支配する庄家があった可能性は高い。

2018年5月18日 (金)

毛利時親譲状2

 この師親に対して、応安年間に比定できる六月一九日宝乗(時衡=時茂)書状では、了禅(時親)跡の所領の相続については、時親の譲状と置文並びにそれを惣領(北条氏)毛利丹後入道慈阿が認めた証状を有していることにより、自らの正当性を主張している。宛名の郡山殿について、秋山伸隆氏は元春申状にみえる「郡山権大僧都」に比定する新たな説を提唱したが、やはり『大日本古文書』が比定する元春だとすべきである。元春が③の譲状を根拠とするのに対して、宝乗は②の譲状を根拠に自らの正当性を主張している。これに対して、元徳二年の譲状は偽文書である。

    元春申状の中に、「親父親衡帯了禅譲状事、元弘曾祖父了禅以下悉在国越後国為先代方之時、親衡在国安芸国之間、給綸旨馳参船上罷上間、其時了禅未為時親之時譲」とある。
元春への譲与との関係が問題となっており、これは②の譲状が作成された時期に、吉田庄について行われた譲与を示すのであろう。吉田庄は貞親領として没収された形だが、将来的にこれを取り戻すという前提で、親衡に譲られたのであろう。時親流毛利氏は貞親が北条氏の謀叛に荷担するとの疑いから、所領を没収され、親衡の船上山での勲功により、佐橋庄南条は没収を免れ、所領の再分割がなされたが、没収された所領についても新たな譲与がなされたのである。
 親衡は吉田庄を譲られたので早くから入部したのではないかとの疑問も出ようが、親衡は貞親の長子ではあるが庶子であり、それがゆえに吉田庄地頭代として入部したと考えられる。くりかえしになるが、元徳二年の譲状は後になって作成されたものである。

毛利時親譲状1

 元徳二年三月五日毛利時親譲状は、祇園社との間で下地中分が行われ、地頭分となった吉田庄内吉田郷と麻原郷を孫である毛利孫太郎親茂に譲っている。ただし、祇園一切経の負担を勤仕せよという内容には疑問を感じる。何より、時親の嫡子貞親を飛ばして孫に譲る理由が理解できない。
 これに対して、関係する譲状では唯一原本だとされる建武三年正月晦日貞親譲状では、吉田郷(吉田庄の誤りヵ)は父時親ではなく母亀谷局が祖父経光(寂仏)から文永年間に譲られ、貞親は母から譲られたものだとした上で、吉田庄内吉田郷のみを、子時茂ではなく、孫師親に譲るとしている。これについても、当時、後醍醐のもとにあった貞親が、尊氏方の師親に譲る理由が理解できない上に、この時点では元服し師親と名乗ってはいないとの疑問を呈した。
 時親譲状に戻ると、何度か作成されたはずである。最初は①嫡子貞親への譲状が作成されたが、貞親が建武政権から謀叛への関与を疑われ、所領が没収されたことを受けて、②時親が越後国佐橋庄内南条など残された所領を子孫に再分配した。これについては毛利元春申状の中でも触れられている。次いで、時親と師親を除く一族が南朝方であることを受けて、③時親から師親への譲状が作成された。
 時親譲状は少なくとも以上の三回は作成された。この中に、元徳二年の譲状は入らないのである。この譲状の背景には、吉田庄が嫡子貞親ではなく、祖父時親から孫親茂に譲られたとし、貞親が没収された所領に吉田庄が含まれないことを主張したもので、後に作成された偽文書であろう。その時期としては、時親が死亡した前後に、師親が粉失状を作成した時点ではないか。そこでは、毛利氏惣領北条氏当主ではなく、長井氏二名と中條氏が証人となっている。その原因としては、その時点の北条氏が南朝方であったことがあろう。

2018年5月14日 (月)

国造譲状と造営関係史料10

 最後に南北朝期の譲状から御下文以上に造営旧記・差図が重要となったのは、それまではライバルとの神主をめぐる対立に勝利するため、とりわけ幕府関係の御下文が必要であったので、これを偽作してライバル並びに領家との対立に勝利した。ところがその後、国造家の分立という事態が生まれたため、①②③と差図を所持する北島家はこれもまた自らの正当性を示すものとして利用した。それに対抗するため、千家側は、宝治の造営に関する史料しか所持しなかったため、自らの記憶に基づき、北島家に対抗して差図を作成した。
 こうした両家の対立も時間が経過したこと、戦国大名や国人、末社であった日御崎社など外部との対立が生じたこと、さらにはながらく正殿造営ができなかったことで、二つの国造家は既成事実となり、相手も所持する造営旧記の持つ重みは低下したと思われる。
 ながながと、脱線しつつ述べたが、建築史家にしめすべき根拠ある情報を確立しなければならないが、発掘された遺構に基づく分析でも、研究者により見解が違い、山岸常人氏のように、宝治の造営以前の本殿の規模も共通であったと考える必要はないとの見解をみると、唖然としてしまう。少なくとも過去の記録に基づき造営をしており、一旦は別の基準で造営をせよとの方針が出されたこともあったが、国造の所持する史料に基づき作成することに変更されている。少なくとも天仁・久安・建久・宝治年間に造営された本殿は八丈であったと思われる。天仁に先立つ治暦については、天仁の造営で規模の拡大が図られたため、材木が不足し、国外からも調達するとの方法が選ばれた可能性があるという意味で、とりあえず除いておいた。
 細部については今後も検討し見直す可能性もあるが、横道にそれながらも標記の問題に関する大枠についてまとめてみた。

国造譲状と造営関係史料9

 北島家譜にはこの史料に続いて「一 建長元年己酉六月日御遷宮注進記録」の題名に続いて出雲大社正殿式の方尺が記されている。この史料と寛文の造営に関して残された史料が類似し、且つ「正殿式」との表記が生まれたのは近世以降だとして、この史料そのものを近世のものとする意見があるが、北島家譜そのものはそれ以前から存在した国造家譜を引き継ぐ形で、南北朝期以降書き加えられたもので、途中で何度か写し直すことはあり、その過程で、都合の悪い部分が削除されたりしたことはあるが、この部分が寛文の造営以降に挿入された可能性はほとんどない。
 建築史家は差図を重視されるが、現在残っている①②③④のみでは新たな造営を行うデータが揃っているのは言いがたく、寸法を明示したものがなければ造営はできない.実際に、これを所持する国造側がその開示をサボタージュしたため、領家はやむなく国造を神主に補任した。寸法を明示した注文とその補足史料として簡単な差図があったと思われ、これが康永二年の孝景作成の目録にみえる「差図」である。そこには「宝治造営旧記」とあるが、これは②そのものであり、これが北島家に残っていることは、「差図」も北島家に渡されたはずである。そして差図とは宝治二年造営の本殿に関するものである。
 建築史家は「金輪御造営差図」について言及するが、第一に確認すべきことは、これは千家方に残っているので、康永二年目録に見える差図ではない。これ以降に、何らかの理由から作成されたものである。三本柱を束ねる構造は、今回検出された遺構と共通しているが、その情報には「引橋一町」等新たに付け加えられたものがあり、これを識別する必要がある。応安四年一二月一九日に千家孝宗が譲状を作成しており、そこに見える「造営旧記」とは④⑤⑥⑦であろうが、それに加えて差図の所持が必要であったために千家方で「金輪差図」の原型となるものが作られたと思われる。

国造譲状と造営関係史料8

 すでに見たように、建武二年冬に領家雑掌が越訴を行ったため、国造側は裁判史料として自らの由緒(造営旧記、領家・幕府文書)を京都に持って行った。訴訟が長期化する中、滞在費並びに裁判関係者への働きかけの費用がかさんだのか、お金を工面するため文書を質入れしてしまった。それが、国造家の分立問題が発生した際に、少なくとも孝宗側は孝景と結んで関係文書を入手して、対立する貞孝側に対して優位に立とうとしたが、結果的にはその中心史料は貞孝方が入手した。これを千家側は不当だと指摘する。清孝が掌握する杵築大社政所から持ち出したものではあるが、清孝の後継者が貞孝であったことは決まっており、そのもとに文書を持ち込んだのが誰かは不明だが、利害の対立する千家方を除けば批判されるべき行為ではなかった。史料からは孝景が健在なうちに渡され、それを千家側がその子時孝への御教書発給を幕府ないしは守護に求めているように思える。ただし残っているのは応安三年の杵築大社神官等解状のみで、幕府や守護の発給文書は残されていない。
 前にも述べたが、裁判に提出された資料は自己に都合の良いように述べており、そこに記された内容の信憑性について検討した上で利用しなければならない。ここに登場する杵築大社神官等は千家方の神官にすぎない。いずれにせよ、造営旧記の所持は今後の造営事業を行う上で必要不可欠であり、かつ、自らの正当性を主張するものでもあった。正平一二年正月日出雲貞孝申状では「貞孝帯旧規等注進言上」とし、貞治四年一〇月日出雲資孝でも「旧記・差図等数十代相続資孝」と述べている。
 実際に造営旧記がどのように所蔵されているかをみると、①「治暦・天仁・久安旧記」と②「建長元年六月日杵築大社遷宮注進状」、③「承久二年遷宮勘例案」は北島家が所蔵する。都に持って行った文書であろう。これに対して杵築大社政所を独占していた千家側にも、②の関連史料で裁判には使用されなかったものが残っている。④建長元年八月日日記案抜書は,その名のとおり原本ではないが、遷宮に関する日記から神宝に関する部分を抜き出したもので、本来は国司への報告のため目代の子息である細工所別当左近将監源宗房が作成したものであるが、年月日と作成者名の部分を削除している。北島家譜には削除前のものが収録されているが、当番月に政所で写したものであろうか。その他、文永一二年四月に報告された⑤仮殿造営目録日記、⑥正殿道営日記目録、⑦遷宮日時并神事勤行式次第が千家方に残されている。⑦が②の抜粋であることは一目瞭然である。いずれも杵築社政所に保管されており、裁判には直接関係しないため、千家方に残されていた。

国造譲状と造営関係史料7

 康永二年三月一六日には出雲孝景が和与状を作成しているが、同時に関係文書目録を作成して清孝方=杵築社政所へ遣わすべきものは目録以外でも後日に渡すとしている。京都での裁判費用がかさんだためか一部の文書は質券に入れてしまい、以前に清孝から送金があり請出すように指示があったので、早急に請進めることを約束している。相手が明記されていないが、徳治二年の泰孝譲状については、写に対して孝宗が裏を封じており、和与の相手は孝宗である。譲状の裏書きには「それより給下候案文ニまかせてかきて候、正文ハやけて候よしうけ給り候」とあるが、これは孝景が和与文書目録で書いてあることと同じであり、正文は焼失したと聞いたが、孝宗から給わった案文に任せて作成したものである。一応の案文は孝宗のもとにあったが、それを京都で正文から写したものを入手したという形ではくを付けたことがわかる。そして粉失文書目録では、一通も渡すことができない場合は約束した所領を悔返されても異論無き旨を約束している。
 ここからわかるのは、塩冶高貞の死を契機に孝景が孝時流の後継者貞孝に対して相論をおこしたが、すると孝宗が孝景に対して、裁判のため京都へあげた関係文書を渡すことを条件に、孝景に杵築社領の一定部分を清孝から譲るという約束をしていたことである。このことについて、応安三年八月二八日杵築大社神官等申状では、貞孝が所持すると号する文書は清孝相伝の証文であり、清孝のもとに返されるはずが京都で質入れされていたこと、質から請出して文書を渡すことを孝景が自筆の文書で約束したが、関係文書は貞孝方に渡されてしまったことを述べて、貞孝方の所持は不当だとして、その後死亡した孝景に代わって子息時孝に対して何度も御教書が出されていると述べている。
  康永二年三月二八日出雲清孝譲状は、これ以前に作成された譲状に変更を加えた新たな譲状である。「旧記并代々御下文以下文書」と旧記を御下文の先に記している点は、これ以降の譲状の先駆けとなる。応安四年一二月一九日出雲孝宗譲状には「相副 当社造営旧記・差図并公家・武家代々御下文以下調度之正文等」とあり、応永二四年一二月一三日出雲資孝譲状には「旧記・差図・関東御下知状之外社家之□記」とある(貞孝は急死したのか資孝への譲状は残っていない)。寛正二年五月一二日出雲持国譲状まで、この形が続くが、戦国期以降の譲状では造営旧記は姿を消している。この点については松薗斉氏「中世神社の記録について-「日記の家」の視点から」に譲状の一覧表が掲載されている。

国造譲状と造営関係史料6

 問題は違乱あるべからずと書き置いた「大方殿」であるが、後家である覚日であって、妙善をこれに比定するのは誤りである。よって暦応三年四月に覚日が稲岡郷内の所領を孝宗に与え、これを国造清孝を通じて伝えたと考えるべきである。丁度、孝時を当座の惣領とする際にも、覚日は自らの所領を一期の後は実子である孝景に与える譲状を作成したのと同じである。兄でありながら、相続対象者から排除されていた孝宗への配慮であった。ところが、暦応四年三月には相続の立会人である出雲国守護塩冶高貞を討伐せよとの命令が幕府から出され、逃れてきた出雲国内で高貞は自害してしまった。
 これをうけて最初に動いたのが東三郎=孝景であり、その相論の相手とは清孝ではなく、その後継者貞孝であった。次いで、孝景と孝宗が結ぶという事態に発展した。建武三年六月二日の覚日書状の内容が後に書き換えられたことが問題となったが、本質的な点は三郎清孝を国造としたことを述べているにもかかわらず、この文書は清孝から譲られたと主張する孝宗ではなく、貞孝が所持していたのである。訴訟関係文書が京都へ持って行かれた後に作成された文書であり、国造孝時と領家雑掌の裁判とも無関係である。六月二日書状は建武二年の孝時譲状、並びに置文とともに貞孝に渡されたのであった。文書はそのことで利益を得るもののところに残るという定石通りである。孝時譲状は清孝ではなく貞孝に宛てたものであった。これに対して建武元年八月一〇日の孝時から清孝への譲状は偽文書である。これがなければ、清孝から孝宗への譲状が成り立たないのである。
  ただし、清孝譲状もまた残されている正しい譲状と比べて内容、形式が異例である。これに先立つ康永二年三月三日の守護関係者の注進状では「国造孝宗代宗高申」とあり、すでに孝宗が国造を称している。康永二年三月一五日覚明筆崛狗九条袈裟裏書によれば、清孝の死亡はこれ以降のこととなる。そして浄覚書状により五月一三日までには死亡していた。よって康永二年六月八日国造清孝杵築内所領配分状は後に作成された偽文書である。

国造譲状と造営関係史料5

 大社文書で裁判に関係する主要な史料は京都に送られたが、その他は孝時から清孝・貞孝の異母兄である杵築弘乗房が預かっており、その弘乗房から文書を国造清孝に渡したとの報告があり、暦応二年二月二七日には高貞が承知した旨答えている。清孝方=杵築社政所である。同年一二月には国造清孝が杵築社頭役に関する高貞からの文書を送るとともに、国造の代官を舎弟五郎孝宗に申し付けたので、頭役の遵行を孝宗とともに行うことを山城守に依頼している。山城守とは高貞の同母弟時綱の子山城守宗貞である。
 暦応三年四月二〇日、清孝が稲岡郷の一部を御相承として進め候、得□(心ヵ)あるべく候と千家五郎孝宗に伝えている。大社町史の綱文では清孝が大方殿に所領を与えたとするが、この解釈で良いであろうか。大方殿が自らの所領を孝宗に進めたとの解釈が正しいのではないか。
 まずは「大方殿」とは誰であろうか。国語辞典的には貴人の母の尊称とあり、孝宗の母妙善の可能性もあるが、康永三年五月一三日沙弥浄覚書状にも「大方殿」がみえている。兄弟間の相論に対して、両方とも大方殿が兄弟に違乱があってはならないと書き置いた旨については度々承っているだろうと述べている。次いで清孝が存命中から孝宗が代官を務めた上で相続したことは承知しているが、「正直なところを申すのも神を恐れることになる」と言葉を濁した上で、この点は国造家関係者や国衙の有力者せある多祢・朝山へも先に申したことを述べ、祭礼・神事が行われなければならないと、千家孝宗に伝えている。
 「 」内の発言をどう解釈するかは意見がわかれる可能性があるが、清孝の死を受けて後継者であるとされていた貞孝が神魂社に赴き火継ぎ神事を受けたことを念頭に置いているのであろう。後継者の儀式を終えた貞孝に対して、孝宗が杵築社政所を押さえて対抗しているのである。浄覚としてはとりあえず、祭礼・神事を終了した上で調整すべきことを伝えていると思われる。この三日後の日付を持つ母妙善の孝宗宛の書状が偽作されたのも、貞孝方が正式な儀式を終えているのに対して孝宗はそれを受けていないという弱点をカバーするためのものだった。

国造譲状と造営関係史料4

 建武三年前半に国造孝時が死亡したが、前年である建武二年には前回の泰孝置文を踏まえた対応が検討された。福得丸も三〇歳後半になり彦三郎孝景(三郎孝時とともに後継者の候補であることを示す)と名乗り、孝時の子とともに有力な後継者であった。覚日は実子孝景ではなく、孝時の嫡子三郎清孝を後継者と考えていたが、清孝には問題が発生したようで(あるいは病弱で子孫誕生が期待できないことか)、孝時は悔返して弟の六郎貞孝に譲ることとした。その譲状では「代々御下文以下之文書」を相副えてとのみあり、「造営旧記」に触れていないが、当時「造営旧記」が京都へ訴訟のため送られていたことが関係するかもしれない。いずれにせよ、最初には「代々御下文以下之文書」が記される。
 清孝は偽文書ではあるが、文保二年には元服していたと考えられ、三〇代であったと思われる。建武二年の時点で元服直前であった貞孝とは二〇才近い年齢差が想定され、異母弟であった可能性が高い。これに対して五郎孝宗は貞孝よりやや年齢が上で、貞孝の同母兄であったであろう。同母(妙善)の兄弟でありながら、父母が弟を重視するのは、嵯峨天皇の中宮西園寺姞子(大宮院)がともに自分の子でありながら後深草天皇よりも六才年下の亀山天皇を重視したのと同じであるが、孝宗からすれば心穏やかならざるところがあったと思われる
 孝時の悔返しに対して覚日が後家の立場から口入し、清孝を一期分の国造とし、その跡を貞孝が継承することを決めた。一方で覚日は自らの子孝景には孝時から譲られた所領を一期の後に譲る旨を伝えた。それを甥である出雲国守護塩冶高貞に伝えた文書中に大社関係文書を領家雑掌との裁判のため京都にあげており、手元にないので、とりあえず玉造の僧明正御房に預けたことを示す請取りを明後日までに送るとしている。これに関係するのが建武三年と思われる国造孝時申状である。
 次いで孝時の死を受けて、建武三年六月二日に覚日が孝時跡の惣領を清孝とし、自らの知行分とその他の子が知行する所領については別紙に記したとして弟である守護塩冶高貞のもとに使者を派遣して報告した。これを受けて、高貞が六月五日付けで覚日の意向を国造清孝に対して施行するとともに、守護代的立場にある日野掃部左衞門入道と富田弥六入道(頼秀)に対して、孝景以下の輩が異論を申すようなら急ぎ注進するよう命じている。この時点で貞孝は元服直前であったようで、六月一九日には伯耆国長田城、晦日には小松城で合戦に参加し、軍忠状を提出して、高貞から証判を受けている。

国造譲状と造営関係史料3

 神主職をめぐっては領家雑掌側が事実に基づき主張したのに対して国造側は偽文書に基づき主張した。結果的には永仁五年の判決を踏襲した判断が、正和三年に出されたようである。ただしそれは神主に限定されており、領家兼嗣は同年七月一六日には虎一丸を三崎社検校職に補任している。残されたのは杵築社領をめぐる領家と国造の争いであったが、国造側が領家側から所領の支配権を与えられたと主張したので、幕府はその証拠の提出を求めたが、その後の状況は不明である。文保元年には領家兼嗣が死亡し、その跡を継承したと思われる通嗣については正安二年(一三〇〇)には公卿となっているが、正中二年以降、公卿補任から姿を消し、その動向を追うことができなくなる。その時点で嫡子忠嗣は二九歳で、公卿となったのは四四歳となった暦応三年(一三四〇)であった。
 元亨三年(一三二三)には杵築社領の本家職は後醍醐天皇から永嘉門院に渡された。永嘉門院は宗尊親王の遺児で、元の杵築社本家であった承明門院が宗尊親王の曾祖母であり、永嘉門院は承明門院が残した土御門殿で育てられた。永嘉門院は後二条天皇の遺児(邦良)を育てていたが、その母は後醍醐天皇の母五辻忠子の姪宗子であった。後二条は後宇多の後継者であったが、早世し、そのために弟後醍醐が一期分として天皇となった。松殿兼嗣は五辻氏を介して後宇多・後醍醐に接近し、その結果、亀山上皇の死とともに領家に復帰した。その見返りとして、兼嗣は宗子の兄親氏に千家村を譲っている。この永嘉門院も元徳三年(一三二九)に死亡し、杵築社領は再び後醍醐領となったと思われる。
 配流先の隠岐から帰還し政権に復帰した後醍醐天皇のもとで、元弘三年一二月に一宮の本家と領家は停止されたが、まもなく撤回されたようである。それを受けて領家雑掌孝助が正和三年の判決に対する越訴を提起した。前回決着した神主職を含めて審議が開始されたが、今回は前回のような鎌倉幕府による引級は期待できず、国造側は厳しい状況が予想されたが、動乱が始まったこともあり、その後の展開は不明である。

国造譲状と造営関係史料2

以下の説明のため、総合的に判断した関係者の生年推定を示す。
 守護関係者 頼泰1245年頃~ 貞清1275頃~1326 覚日1280頃~ 高貞1295頃~1341 
  時綱1297頃~  宗貞1317頃~1341
 国造家関係者 泰孝1240年頃~1307? 孝時1275頃~1336? 孝景(福得)1295頃  
 清孝1300頃~1345  孝宗1315頃 貞孝1320頃
 守護泰清と義孝はほぼ同世代で、泰清が弘安五年に死亡したのに対して義孝も弘安四年三月の申状作成後まもなく死亡した可能性が高い。そうしてみると、義孝の子泰孝と泰清の孫(曾孫を修正)である覚日の間には二世代分=四〇歳近い年齢差があったことになる。まさに孝時の晩年に産まれたのが福得丸で、且つ佐々木家との関係を考えると、福得丸を後継者とすることも考えられる。ただし、当初の後継者である孝時を支持する人々もあったであろうし、且つ元服前には国造にはなれない。孝時の年齢を示すものはないが、文保二年(一三一八)一一月一四日国造孝時去渡状(偽文書)が作成されていることを考えれば、徳治二年(一三〇七)には孝時は三〇歳前後で、福得丸は一〇歳前後であろうか。泰孝置文では「国造大社神主」と、譲状では「国造兼大社司」であるが、譲与の対象はいずれも「神主」であって「惣検校」ではない。これに対して去渡状では「国造兼惣検校」と署名し、且つ「国造三郎」という宛所がある。また、その内容は泰孝置文に反するものである。これに対して元亨四年八月二七日の去渡状では「去渡 舎弟出雲貞孝」という形で始まり、以下に具体的権益を記し、最後に「国造兼」出雲孝時と署判を加えているが、「神主」が欠落したものであろう。孝時と覚日はほぼ同世代であり、孝景は孝時の異母弟である。同様に年齢差を勘案すると、孝時の子孝宗と貞孝は同母(妙善)弟だが、嫡子清孝は異母兄である。
 泰孝は譲状とともに置文も作成した。三月二〇日の置文では、神主・国造職と杵築社領を、その証文とともに女房(覚日)に渡した。いわゆる後継者決定権を委ねた後家としたのである。当面は一期分として孝時に譲るが、その後継者は孝時と福得の子孫から覚日が選んで決めることを定めた。その上で一二月五日の譲状では嫡子孝時とその他の子に所領を譲った。一期分の惣領である孝時には所職・所領の文書に併せて御造営日記・調度之証文を譲った。すでにこの時点では領家との対立も発生しており、旧記は重要な証拠であった。ただし、孝時への譲状と置文は後家である覚日のもとにあった。泰孝の死後まもなく、領家雑掌との裁判が始まった。

国造譲状と造営関係史料1

 建築史の専門家を中心に標記の問題が分析されているが、譲状を最初に本格的に分析した松薗氏の論文でも、譲状の真偽すら検討せずに述べられており、スタート地点から誤った。毛利氏の鎌倉・南北朝期の譲状の分析についても同様の状況がみられ、研究の質が問われている。国造家の正しい譲状は弘長二年一二月三日出雲義孝譲状からである。ただし、これ以降のものにも後述のように偽文書(後から作り直したものとの意味である)が含まれる。
 義孝以前の譲状が偽作された背景には、領家との裁判、神主職をめぐる対立とともに、国造家内部での相続争いも絡んでおり、それをふまえた分析が必要である。内部の争いとは宗孝流とそれ以前の国造家との対立と、孝房の子である孝綱系と政孝系の争いである。それが一段落したことで、今度は国造家の分立が生じた。
 義孝譲状に記された「次第調度之証文」の中に造営史料は含まれていたとみるべきである。宝治二年の遷宮にいたる過程で造営史料、具体的には建久二年の裁判に際し、過去の記録を抜き出したもの(治暦・天永・久安旧記)がものいってライバルを押しのけて神主職を安定的に確保した。本来は神主の権限を分割してこれを牽制するために創設された権検校についても、有名無実化し、領家の補任権は失われた。この過程で国造家のものとなり、現在は平岡家文書として残っている。宝治の造営を主導したことで新たな造営記録を国造家が独占的に入手した。本来は杵築社政所で管理すべきであるが、ライバルが神主になった際には、その提出命令をサボタージュし、造営が遅れる中、文永一二年に義孝は領家から神主に補任された。領家は主導権を確保したかったが、朝廷(院)・知行国主・幕府から圧力がかかり、妥協せざるを得なかった。
 次いで、これら造営史料を所持することが出雲真高・実政父子との神主をめぐる第二ラウンドの対立に勝利する最大の要因となった。徳治二年(一三〇七)一二月五日に泰孝が作成した譲状には御造営遷宮日記・文書以下調度の証文とあり、これを義孝は次第調度之証文と呼んでいた。これに遡る永仁五年に神主職に関する出雲実政の越訴が退けられていた。この時点の領家は、過去の状況には不案内な三条廊御方であり、幕府の申し入れを受け入れざるを得なかった。

 

塩冶高貞謀叛事件4

 塩冶高貞の後室(死亡時に最年長の子が五才、高貞は四〇代半ばか)が早田宮の娘であることは『大日本史料』を通じて理解していたが、早田宮の名が真覚で、宗尊親王の子で永嘉門院の兄であることをようやく確認した。南北朝の専門家なら周知の事実であるが、鎌倉期の専門家にはそれほど知られていないことなのだろう。早田の宮が大覚寺統関係者のもとで育てられ、その子が後醍醐天皇の猶子となることは十分にありうることである。     
 真覚は一度は円満院に入りながら、その後還俗し、元応元年(一三一九)に生まれたのが真覚、改め宗治王(源宗治)である。南北朝が分立した建武三年の時点では一七才であったが正月の除目で従三位となり、その後は南朝方に留まり、最後は貞和元年(一三四六)に九州で二七才で死亡したとされる(公卿補任)。そこから懐良親王と行動を共にしていたのではないかとされる。懐良親王は建武三年に九州へ派遣されるが失敗し、しばらくは忽那島など瀬戸内海地域を拠点とし、高貞が追討された暦応四年頃に薩摩に上陸したとされる。
 亀田俊和氏は高貞の後室西台が宗治王の妹であることから密かに南朝に通じ、それが発覚したため逃亡し討たれたとしたが、高貞の逃走の経路や過程をみても、南朝関係者がこれを支援した痕跡は皆無で、一族・関係者を伴っての孤独な逃走であった。高貞が南朝方となることで最も利益を受ける伯耆国名和氏の動きも確認できない。ただし、高貞の後室の出自が彼への疑念を抱かさせるものであったのは確かで、それゆえに師直がこれを利用して讒言したというのが真相に近いのではないか。
 建武政権下でも毛利貞親はその母が長崎氏出身の亀谷局であったがために謀叛への荷担を疑われ、京都で長井氏惣領挙冬のもとで幽閉された。荷担の事実はなく、殺害されることなく生き延びたが、彼の人生に大きな負の影響を受けた。父時親は八〇才を越え、五〇代の貞親が惣領となっていたが、おそらくは同母弟二名も同様の処罰を受けた可能性が高い。弟の一人が修理亮某であり、父時親から河内国加賀田郷を譲られ、長崎氏と関係の深い楠木正成に兵学を指導したとされる毛利修理亮であろう。
 前述のように動乱前半において毛利氏関係者の大半は南朝方であった。唯一例外であったのは吉田庄を後醍醐の寵臣阿野氏に奪われたため、母の実家にいた貞親の孫であった。貞親の庶子として吉田庄に派遣されていた親衡の子であったが、父は船上山の後醍醐のもとに参陣したのち都へ上洛し、その後、毛利氏関係者とともに越後へ下ってしまっていた。そうした中で動乱が起きると孫は家臣とともに吉田庄を奪回し、上洛後は尊氏方として行動した。これが庶子の子であった人物が安芸毛利氏の惣領となるきっかけとなった。高師直・師泰との関係から元服後の名前は「師親」とし、兄弟の滅亡後は「元春」と改名した。
 高貞が幕府方から後醍醐方となり、さらには尊氏方に転じた際には合理的判断があった。それに対して暦応四年の時点で彼が南朝方へ転じる合理的理由は見当たらず、その後の逃避行をみても南朝との結び付きは確認出来ない。謀略の犠牲者となったとすべきであろう。

2018年5月12日 (土)

杵築社領の本家4

 嘉元四年八月晦日書状の中で、松殿兼嗣(信煕)は某殿に経済的支援を受けることに感謝するとともに、追加があれば年貢が万疋の地である杵築社領西千家村を進めることを述べている。一期の後は大姫宮御方に進め、その後は五辻氏惣領に返すことを約束するとともに、自分が早世した場合は毎年二千疋を自らの後継者に下されるよう、披露を求めているが、その相手が誰かは記されていない。翌年二月一九日の書状は端裏書から五辻殿に宛てたものであることがわかる。去年申し入れた千家村の進上、姫宮は一期分であること、自らの死後は二千疋を下さるように述べて、返事を求めており、前年の書状の宛先が五辻殿であったことが判明する。
 問題は五辻殿と大姫宮が誰かである。すでにみたように永嘉門院は正安二年(一三〇〇)生まれの養子邦良親王を通じてその母五辻宗子と関係を持っていた。邦良の父後二条天皇の母西華門院(基子)は堀川具守の娘で、祖父基具の養女として後宇多上皇の後宮に入った。永嘉門院は堀川基具の従姉妹である。五辻宗子の父宗親は乾元元年(一三〇二)一二月二五日に死亡しており、その兄親氏と叔父宗氏とが考えられるが、宗氏は亀山上皇の死をうけて嘉元三年(一三〇五)九月一七日に出家しており、親氏となる。一方大姫宮とは、嘉元四年にはすでに院号を与えられているが、永嘉門院であろう。一旦は、父宗尊親王が相続するはずの室町院領の相続を認められたが、まもなく取り消しとなり、大覚寺統系の庄園の領家を務めていたが、十分ではなかった。
 この文書は国立歴史民俗博物館所蔵の田中本古文書に含まれているが、その中には南北朝後期に杵築社領を獲得する山科家の文書が含まれており、一連のものであろう。領家松殿氏の文書を入手し、藤原光隆との関係を背景に、土御門親王家に代わって幕府から杵築社領の支配を認められたと思われる。ともあれ、二通の信煕書状から、永嘉門院=土御門姫君(大姫宮)が元亨三年に杵築社領本家職を返される以前に、その領家職の一部を得ていたことになる。そしてその文書は後に山科家が入手していた。

杵築社領の本家3

 正安三年一二月日延暦寺東塔東谷仏頂尾衆徒申状によると、日吉十禅師社領近江国得珍保の所領を堺を接する羽田庄側が押領していることを訴えている。前領家室町院の時代に一旦解決したが、現領家土御門姫宮の時代になってから押領が復活したとする。羽田庄は昭慶門院領目録には按察使(藤原頼藤)殿と重経がみえ、山門供料所五〇石が記されているが、これは室町院領時代のことで、その後永嘉門院領となっていた。
 『花園天皇宸記』元亨三年七月二一日条に、室町院領の問題で永嘉門院が訴え、右大将のもとへ院宣が出されたことが記されている。九月四日条には関東へ訴えたという説も記されている。 永嘉門院は亡父宗尊が譲られるはずであった所領について、再度相続を求めたのではないか。その背景としては後宇多上皇とその異母妹昭慶門院の状況が影響した可能性が大きい。翌四年に後宇多は五八才で、昭慶門院も五四才で死亡するが、永嘉門院は後宇多の嫡孫邦良も養育しており、後宇多が存命中に諸問題に決着を付けることを目指したと思われる。元亨三年七月二七日関東執奏状をうけて八月一四日には後醍醐天皇綸旨が出され、大覚寺統領の一部が返されたが、所領の中に安嘉門院から亀山上皇、さらには後宇多上皇に譲られてきた杵築社領があったと思われる。
 最大の問題は室町院領の相続(越訴)であった。『花園天皇宸記』元亨四年三月九日条には室町院領の内建長元年に式乾門院から宗尊へ進めた所領を折中するとの伝聞が記され、幕府への批判が述べられている。一九日条には永嘉門院から関東の沙汰につき連絡があり、二〇日条には返還がなされるが、これに恨みを記しつつ、去年既に永嘉門院に返したのに今又返還するのは尤も以て不審と記す。これが正中元年一二月二九日条には一転して、関東から正安四年落居改動され難しとの結論が伝えられたことが記されている。花園は女院に引汲の仁の所為だと批判しているが、決定が覆ったのには後宇多の死も影響か。

杵築社領の本家2

 弘安六年に安嘉門院が死亡したため、その所領は亀山上皇が相続したが、正安二年(一三〇〇)に室町院が死亡したため、その遺領の相続問題が発生した。室町院は本来は一期分の領主にすぎながったが、後継者宗尊が死んだこともあり、大覚寺統の亀山上皇と持明院統の伏見天皇がそれぞれ室町院の養子となり、所領の譲状を得ていた。
 裁判は幕府に持ち込まれ、一旦は院領を室町院一期分と永領分各五〇数ヶ所に分け、前者を宗尊の子瑞子女王に、後者を亀山と伏見で折半するという幕府の判断が示された。ところが、瑞子女王は亀山の猶子となった上に後宇多院の後宮に入り、正安四年正月には准三后となり院号を宣下され永嘉門院となった。これにより、室町院領の四分の三が大覚寺統分となったことに不満を持つ伏見が、式乾門院から宗尊への譲状は翌年の室町院への譲状により破棄されたと抗議した結果、永嘉門院の相続分は取り消され、室町院領全体が亀山と伏見で折半された。
 嘉元四年(一三〇六)の昭慶門院領目録に室町院領分尾張国味岡庄に入道相国と永嘉門院の注記がある。領家職を分割していたのだろう。永嘉門院と前院宮との注記がある阿波国福井庄についても同様であろうか。昭慶門院所領目録は実際には亀山院領であった時期の関係者を記している。
 正和元年(一三一二)には醍醐寺報恩院の供僧等が寺辺田畠・屋敷地に対する甲乙人による濫訴の停止を求め、後宇多上皇院宣で認められているが、そこには甲乙人は伏見上皇に訴えたり、永嘉門院に属したり、幕府の口入と号して裁判を続けたことが非難されている。年未詳二月二八日永嘉門院令旨が伊予国河原庄について出されており、河原庄も永嘉門院領であった。嘉暦四年(一三二九)七月には金沢貞顕が後醍醐天皇と中宮、花園上皇とともに永嘉門院の病のことに言及し、将軍であった宗尊親王の唯一の生存者として心配している旨を書状に記している。
 正慶元年(一三三二)六月日山城臨川寺領目録によると、阿波国富吉庄について、永嘉門院が本家と号して元亨の頃より押妨を行ったことが記されている。後醍醐天皇の第一皇子世良親王は養母昭慶門院から所領を譲られたが、昭慶門院は兄弟である後宇多上皇と同じく正中元年に死亡した。世良親王も元徳元年に死亡するが、その前年に養母から譲られた所領を居所とした禅院に寄進した。これが臨川寺である。昭慶門院領目録には富多庄とみえ、前左兵衛督五辻親氏とその叔父で二位であった宗氏が領家であった。親氏は邦良親王の母宗子の兄弟であり、宗氏は後醍醐の母忠子の兄弟であった。永嘉門院は邦良を養育しており、五辻家との関係を背景に押領したのであろう。

杵築社領の本家1

 杵築社領が安嘉門院であったことについて、何故そうなったのかという疑問が提示されるかもしれないので、承明門院領から安嘉門院領、さらにはその後の経緯を確認する。
 承明門院が正嘉元年(一二五七)に八七才で死亡した際には、孫である後嵯峨院領となる可能性もあったが、曾孫で承明門院の猶子となっていた一五才の宗尊親王に譲られたのであろう。
 建長四年(一二五二)には関東へ下って幕府将軍となった宗尊は二五才となった文永三年(一二六六)に将軍を解任された。将軍後継となった子惟康親王を置いて京都に戻り、承明門院が暮らし、父後嵯峨が育った土御門殿で暮らした。その後、宗尊は文永九年の二月騒動と父後嵯峨の死を受けて出家し、文永一一年に三三才で死亡した。後には正室近衛宰子との間に生まれた掄子女王(一二六五年生)と堀川具教の娘との間に文永九年に生まれた女子と生年不明の男子(真覚)が残されたが、掄子女王は後宇多天皇の後宮に入り、女子は土御門殿で育てられ、土御門姫君と呼ばれた。
 承明門院は後鳥羽院政前半の寵臣土御門通親の養女として、後鳥羽の後宮に入り長男となる土御門天皇を産んだ。土御門は承久の乱で父と兄弟が配流されたのをうけて自ら申し出て土佐へ配流され、後に移動した阿波国で寛喜三年(一二三一)に死亡した。杵築社領の本家は後白河院から後鳥羽院、さらには土御門院に譲られて承久の乱で一旦幕府に没取された。その後は後高倉院ではなく、土御門院の母承明門院領となった。堀川氏は通親の次男通具を祖とし、その嫡子具実に対して具教は庶子で公卿にはなっていない。杵築社領宗尊の死により安嘉門院領となった。後に土御門姫君に確実に伝わるように、後深草・亀山領とするのを避けたのだろう。ただし、安嘉門院が死亡した弘安六年(一二八三)の時点でも土御門姫君は一二才であり、当時の治天の君である亀山院領とされたのだろう。
 土御門姫は瑞子女王と呼ばれていたが、正安二年に室町院が死亡したことで、父宗尊が譲られていた室町院領の相続を主張し、訴えた。承久の乱後、治天の君となった後高倉院に後鳥羽院領が返されたが、その死後、その所領の大半は二人の娘=式乾門院と安嘉門院に譲られた。両者はそれぞれ弟である後堀河天皇の遺児室町院に所領を一期分譲り、その後は、式乾門院領は宗尊親王、安嘉門院は亀山天皇に譲られることになっていたが、宗尊は式乾門院に先立ち死亡し、式乾門院が建長三年(一二五一)に死亡すると室町院が相続した。

2018年5月 9日 (水)

松殿兼嗣の母補足

 前回は大社町史を見ながら書いたが、井上氏の「中世出雲国一宮杵築大社と荘園制支配」の抜刷がみえず、不安があったので、県立図書館で確認した。井上氏なりに慎重に検討されていることがわかったが、当方が疑問に思ったのが文暦二年の領家の花押二点はそれまでの家隆の花押と違うのではないかという点である。『花押かがみ』は井上氏の比定に基づき、総て家隆に比定している。また、井上氏の論文では貞応三年六月一一日袖判御教書の花押は、雅隆と家隆のいずれか決めがたいと述べられていたが、これは雅隆で問題ない。『花押かがみ』もそうなっている。なにより最後の終わり方が雅隆と家隆では明確に違うのである。そうしてみると、文暦二年の花押は家隆よりも雅隆に似ているのである。雅隆の花押として最後に残っている貞応三年の花押は家隆とは明確に違い、文暦二年の花押とは類似点がかなりある。
 井上氏は文暦二年時点で重隆は公卿になっておらず、御教書を発給している人物は三位以上の公卿であるとして、重隆の可能性を排除されたようだが、公卿以外でも御教書を出している例はある(北条氏領については袖判と家臣による執達如件の文書が多数ある)。公家の関係では摂関家とそれに準ずる大臣となる有力な家を除けば、領家としての発給文書が雅隆と家隆のような非参議公卿で残っているのが極めて希である。袖判で下文形式で預所が署判を加えているものならば、多くはないが存在する(日本史大事典:四位以上なら問題ない。正五位下小槻淳方の文書あり)。
 雅隆は七八才で死亡する直前まで領家を務めていたが、家隆は出家して松殿忠房の勧めに従って天王寺に入り、その直後に死亡している。松殿忠房室が雅隆の娘とすると、家隆が出家する一三年前には雅隆は死亡しており、家隆が三五才年下の忠房の勧めで出家する理由が理解できない。それが忠房の室が重隆の娘であれば、重隆は家隆出家の八年後まで健在であり、家隆が甥で、杵築社領家の立場を譲った重隆を介して、その義父である忠房の勧めに従うことは十分考えられる。
 以上補足したが、最大の疑問は花押の人物比定であった。抜刷を確認したのは嘉禄二年の二通の文書にみえる「かすさのかうの殿」がどのような形で記されていたかを確認するためであった。大社町史資料編の当該文書には何故か記されていなかった。前回述べたように、家隆が上総守(介)を務めてから時間が経過し、後に同じく上総介であり、死後もその官職で呼ばれた重隆ではないかと思ったためであったが、うち一通には「かつさのかうの殿御教書、かうろく二年九月二日たいらい」と記されており、文書作成に近い時期に記された可能性が高く、やはり家隆かと思わされたが、果たしてどうであろうか(後で記されたなら重隆と誤解したか)。

 

五月の近況から2

 二〇〇三年と二〇〇四年に平安末から南北朝期の出雲大社に関する論文二本を書いた。大社に関するものは初めてであったが、『大社町史』やその前提となった論文の内容には多くの問題点があったので、きちんと誰にでも納得できる根拠を示して分析結果をまとめた。これにより初めて確定した点が多々あるので、大社を研究する人々に、それを踏まえた新たな研究を期待したが、実際にはその作業はまったく進んでいない。発掘による遺構の検出を受けて造営については建築史の専門家による研究が発表されたが、前提となる古文書や出雲大社をめぐる政治史の理解が不十分なまま執筆されており、大変多くの問題が残っている。その一人三浦氏とは二年前に当方がメールで連絡し、返事をいただいたが、「本殿が八条(約二四メートル)」というのは寛文の造営に際して神社がねつ造したものであるとの主張がなかなか理解できなかった。最近、関係する論文をみて少しわかった気がしたが、なにもないところからねつ造はできないと思うが、その点についても近日中アップしたい。宝治造営の本殿が約八丈であったとの三浦氏の説には同意している。
 最近、自分の研究の点検をしており、出雲大社については二〇〇四年時点でなお不明確であった点や先行研究に依存していた点が実際はどうであったかが明確になった。それについては順次ブログで公開してはいるが、十分に浸透していないようで、とりあえずは二〇一八年版の論文を今年中には研究会で報告した上で、完成したい。情報は錯綜し、真偽も混在しているがきちんと分析すれば誰でも同じ結論に達しうるレベルだと思うが、実際には他の研究者には大変困難なようでもある。この直前にアップした国造北島貞孝申状もそれまできちんと分析したことがなく気になっていたが、昨日になってようやくその内容が理解できたので、昨日から今朝にかけてまとめたものであり、まさに「できたて」である。
(付記)昨日町内会の書類を出すため、県立図書館に本を返却する帰りに市役所に行った。当初間違えて第二分館に行き、その後別の分館で当該課に提出したが、特に前者は老朽化しており、南海地震が発生したら、市役所は対策・救済業務どころではないのではないか。最近「尾氏春秋」の当該記事(嘉永七年)をアップしたが、専門家の判定は出雲大社周辺が震度六弱、松江も震度五強であったというもので、地震発生時には最も被害が深刻な高知県の人々が避難してくる計画であるが、とても無理ではないか。最近は自転車で移動することが多いが、市内にも空き家や老朽化した建物が数多く見られる。二〇〇〇年の鳥取県西部地震では松江市は震度五弱であった。今年四月の島根県西部地震では大田市が震度五強で、松江市は震度四だった。

五月の近況から1

 一年ほど前だったか、NHKのファミリーヒストリーで松江南高OBの某俳優氏を採り上げるとのことで、その母方の先祖について問い合わせがあった。きっかけは論文「近世島根県域における人口変動」を読んで、島根県の宗門改帳に詳しいのではないかとのことであった。以前述べたかは記憶が定かではないが、某俳優氏は郷原信郎氏と同じく高校の二級上となる。二人は友人であるようだ。一歳違いなら兄がそうだったので知っていた可能性もあるが、二歳違いで中学校も違うと全く知らない状況である。
 問い合わせの詳細は述べる必要も無いが、母方の先祖で現在の出雲市の村役人をしていた人があったとかで、その関係資料を知らないかということであった。実際の村の名前も言われたので、とりあえず神社の棟札(戦前に県の寺社係に提出された記録による)を確認したが(村役人の名前が登場することが多い)、みあたらず、後は地元の人に聞いてくださいと回答した。番組は去年一二月に放送されたようで、ネット上で簡単に情報を確認したが、結局その点には触れておらず、やはり資料が確認できなかったようだ。俳優某氏の母の父さんのお母さん(某氏の曾祖母の一人)は国造北島家の出だということで、現在の当主と事務局長さんが番組に登場していた。
 当主については職場の先輩(女性)が高校の同級生だと話していたことを思い出すが、後には県の教育委員長に就任した。事務局長さんとは直接お会いしたことはないが、四年ほど前に手紙で問い合わせがあり、出雲大社に関する論文を送付した。それに対して事務局長さんが当方の論文も参考にしつつまとめた北島国造家に関する一〇〇頁前後の小冊子が送られてきた。事務局長さんは両国造家の分立(事実を踏まえた評価はさまざまあろうが、事実関係としては北島家の主張する通りである)について、某出版物でルポライターによって明白な誤りが述べられていたことから冊子作成を思い立たれた。
 事務局長さんは当方が風土記の丘で講演する日を知ってそこにこられたようであるが、なぜか新聞に掲載された日が違っており、会えなかったとのこと。講演についてはそれに関係する文を新聞に掲載するということで執筆し、講演の少し前に掲載されたが、結果としてはすれ違い、今回のビデオでその御尊顔を拝した次第である。

正平一二年正月日北島貞孝申状3

 貞孝の訴えを受けた直冬から孝宗に事情を尋ね、孝宗から支申状が提出され、それを受けて、孝宗が国造継承の火継ぎ神事を行ったことの証拠の提出が求められ、併せて国内の地頭一〇余人にも確認したが、立証はできなかったとする。この点は貞和五年に両者の裁判が幕府でなされた際にも、孝宗が証拠として提出した康永二年五月一六日付の母妙善妙善書状(国造五郎宛)について、孝宗が母の自筆で保管してきたものだと主張したのに対して、貞孝方は偽文書だということも言わずに、関知しないと述べ、これが幕府奉行人によって裏封(現状変更を許さない為の処置)がなされている。建武元年八月一〇日の孝時から清孝への譲状については、孝宗が佐草禅光の筆になるものと主張したのに対して、貞孝方は謀書だと答えたことが記されており、妙善書状には関知しないとはそれ以前の問題(論外)だというのであろう。両者にとっては事実は明白で一致していたが、裁判をしている以上は自らに不利となる事実を認めるわけにはいかないのである。この点は今の日本の政治状況と全く同じであるが、過去は今更変えることができないが今の問題は放置していてよいわけがない。こんな状況(将来的には失われた~年と呼ばれることは必定)を一日でも早く変えることが歴史に学ぶということである。
 この貞孝の訴えを受け、半年後の六月一七日には後村上天皇綸旨が出され、仮殿造営と三月会の沙汰を貞孝が行うよう下知すべしとされたが、九月一七日には出雲守護が遵行をしていないとして、早急に遵行すべしとの綸旨が出された。守護は富田秀貞であった可能性が大きいが、現地の状況を知っておれば、体制を変えれば混乱は必定であり(幕府方につけいる隙を与える)、両国造体制を解消できなかったのであろう。文書の残り方を見ても、国造の当番は一月交替ではあっても、杵築大社政所そのものは千家方が握っていたことがうかがわれる。正平一三年一二月j二一日には杵築千家五郎宛の綸旨も出されており、神職については一同に沙汰を経なければならないと述べるとともに、祈祷の精誠を抽んずべきことを命じており、南朝も現状を追認せざるを得なかった。

正平一二年正月日北島貞孝申状2

 侍所頭人細川奥州とは顕氏のことで、貞和二年八月から観応元年一一月までその地位にあったことが確認できる。この時期、尊氏・師直・師泰が足利直冬討伐のため都を留守にした隙を突いた直義が南朝方に下っていたが、顕氏が直義に属したため、幕府は細川頼春・清氏に顕氏討伐を命じている。侍所頭人の後任は仁木頼章であった。このため、侍所奉書の時期の特定は困難だが、貞和二年末から三年にかけての時期であろう。三年八月以降は顕氏も南朝攻撃に参加している。このことがあったため、国造北島貞孝のみに命令が出された可能性もある。この後、貞和五年には両者の裁判が幕府で行われていたことがわかる。
 次に問題となるのは、足利直冬が安来に来た際に北島貞孝が自らの安堵を求めた時期である。これは直冬が石見国を発して出雲国に入り、山名時氏とともに上洛した正平九年から一〇年の時期であろう。正平九年九月一〇日には直冬が某神六に対して出雲国での忠節に対して感状を出している。その、苗字の部分が塗抹ないしは判読が困難とされる理由は不明である。国造孝時と弟で尼覚阿が生んだ孝景と国造清孝はいずれも「~三郎」であったが、清孝に問題があったため一期分の国造となり、その跡は弟である六郎貞孝が継承する形となったため、「神六」とは貞孝である。直冬は九月二六日には祇園社祀官法印御房に対して幸晴を祈祷のため出雲国安来に派遣したことに対して礼状を出している。京都の寺社も直冬の動向に強い関心を持っていたことがわかる。東福寺などは所領法吉・末次庄の安堵を求め、反幕府方の土屋・松田・富田氏が請文を提出している。
 当時の出雲国は山名氏が幕府を離脱して出雲国に攻め込んだ正平八年以降は、反幕府方が優位に立っていた。国外に遁れた守護代吉田厳覚に代わって幕府方の中心となっていたのは朝山義景であったが、反幕府方との合戦では一族内も分裂し、且つ戦死者を複数出していた。国造も三月までは幕府方の「文和三年」を使用していたことが確認できるが、直冬・時氏による京都占領が短期間で失敗して退却した正平九年~一八年の間は杵築大社と御崎社に残っている文書はすべて「正平」年号を使用している。

正平一二年正月日北島貞孝申状1

 表題の文書は冒頭で「当社神主職」と述べ、その末尾では造営と三月会について綸旨・国宣に任せて自分に仰せつけるよう求めているが、誰に対して出されたものであろうか。そのヒントは、「当国安来津御座時」の部分と「紀州発向之時」の部分にある。わかりやすい後者から述べると。貞和四年六月七日足利直冬書下で、紀州凶徒退治のため発向したので、祈祷懇志を抽んずるよう命ぜられて以来、今に至るまで祈祷を退転したことはないとしている。これに関係して貞和三年一二月二二日には出雲国守護代吉田厳覚が国造に対して、祈祷の御礼を述べている。また、翌貞和四年二月一八日には、厳覚が東条・吉野以下の凶徒以下の静謐を終えて京都に戻ったところ、巻数が到来したとして、北島殿に礼状を送っている。この後、四月一六日に足利直義が紀伊国凶徒退治のため、養子直冬を派遣したとして軍勢催促を行っている。実際に直冬が出陣のため東寺に陣をしいたのは五月二八日で、六月一八日に紀伊国に向けて進発した。その際に各地の寺社に祈祷を命ずる書下を出している(六月一八日宝積寺宛、前田氏所蔵文書)。
 この合戦については、三刀屋氏惣領信恵も守護京極高氏の催促状(貞和三年一一月二八日付の大野氏宛が残っている。伊藤氏の場合は同日付で直義が催促している)をうけて、子弥三郎扶直が正月一日に八幡に馳参り、二日には河内国佐々良に着到して以降の事を、守護代吉田厳覚を見知人として二月一三日に軍忠状を提出し、守護の承判を受けている。同日には三刀屋氏庶子の粟谷村一分地頭彦十郎貞助も軍忠状を提出している。同日付で香折新宮地頭飯島九郎三郎も軍忠状を提出している。戦闘では楠木正行ら南朝の激しい抵抗もあり二月九日には京極高氏の子四郎左衛門尉秀宗が和泉国水越寺で討ち死にしている(常楽記)。
 この時期の幕府関係者から杵築大社宛の文書は千家国造には残っていない。結果として残さなかった可能性もあるが、関係がありそうなのが、貞治四年一〇月一〇日国造北島資孝申状である。山名氏も幕府方に転じ、京極高氏の出雲国守護としての支配が復活したことで、国造千家孝宗が先手を打って申状を出したのに対する反論を述べている(支状)。ここでは杵築大社造営の旧記とともにはじめて差図が登場することも注目されるが、孝宗方の主張を一々述べた上での反論という形はとられていない。
 証拠として副進している具書の中に系図、造営を命ずる御教書等、祈祷を命ずる御教書と並んで細川奥州による侍所奉書とそれに関する吉田厳覚注進状があり、孝宗合戦罪科は遁れ難いとの注記が付されている。本文によると貞和二年八月に杵築大社領内で本所雑掌と孝宗が合戦をしたため、それを厳覚が幕府に注進し、侍所奉書が出されたことがわかる。動乱開始時に領家雑掌孝助と国造孝時の裁判が行われていたが、対立が続いていたことがわかる。ただし、なぜ千家方とかは不明である。両国造の和与状に依れば偶数月である八月は北島方の出仕月である。

2018年5月 7日 (月)

弁慶誕生伝説の背景5

 長海庄とはどの範囲に及んでいたのであろうか。『島根の地名』には長海町から本庄町までが長海本庄、新庄町が長海新庄とするが、清安寺の問題があるので、両庄の領域が錯綜していた可能性もあると逃げている。地図をみて気になるのは、上宇部尾と下宇部尾という地名である。当然セットとなるものであるが、上宇部尾は新庄町の南に、下宇部尾は旧美保関町にあるように、離ればなれとなっている。
 勝手に想像すれば、この上宇部尾から下宇部尾までが長海庄内ではないかということである。長海のもととなった長海神社が本庄町ではなく、長海川流域の谷=長海町内にあることも、現在の状況からは不自然にみえる。本庄川流域は長海川流域よりはるかに大きいが、素人目に気づくのは大きな溜め池の存在である。長海町には地図上では海蔵寺という寺院もみえるが、なぜか、最新版の島根県宗教法人名簿には掲載されていない。この海蔵寺をブログでは戦国期に相国寺から訪れた惟高妙安が滞在した「海蔵寺」に比定した。そのことも、佐々木泰清頓死の地であることとともに、室町期以降のこの地の重要性を示している。
 長海庄はその名の通り、長海川周辺地域の開発が先行していたが、一二世紀前半に上宇部尾から下宇部尾に及ぶ広大な地域が囲い込まれて待賢門院に寄進され成立した。その当時の本庄川流域については上流域から谷の出口までの谷の開発にとどまっており、長海川流域が主であるのに対して従の位置に留まっていた。
 長海庄が寄進・立券された一二世紀前半には松江市域では安楽寿院領(鳥羽上皇)佐陀庄や成勝寺領(崇徳上皇)揖屋庄が成立している。これに対して一二世紀後半に成立したのが、蓮華王院領(後白河上皇)加賀庄、歓喜光院領(建春門院)来海庄、最勝光院領(建春門院と高倉天皇)大野庄である。その後、本庄川下流域の開発が進む中、新開発地を中心とする地域が長海新庄として独立したが、本庄川北側の耕地部分と海岸地域は長海本庄内とされた。弁慶生誕地とされる場所は長海村内である。本庄地域は中世を通じて中海から松江市街地北部を結ぶ海陸の拠点であり、物流の中心として様々な情報が流入し、その中で弁慶生誕地という伝承が生まれたと思われる。

弁慶誕生伝説の背景4

 長海庄と幕府との関係については以上のとおりで、鎌倉初期には義経との関係を疑われ失脚した兵衞尉政綱がその管理に当たっていた可能性が高い。また、弁慶伝説との関係で言えば、弁慶の母と出身地とされる紀州熊野に対して、長海庄には中心的神社として本庄町に熊野神社がある。出雲国では、楯縫郡平田保も同様であるが、都市的空間で市場が立つ地域に熊野神社や恵比須社が勧請されている例が目立つ。島根郡内長田西郷(現在の川津)でも中世後期には熊野神社が確認できる。出雲国では杵築大社が一宮となる院政期以前には国府の南側にある意宇郡熊野大社が国内序列一位の神社であったが、中世にはその地位は大きく低下した。そうした中、熊野大社では新たに伊勢神宮と紀州熊野との結びつきを強めて存在感を高めようとしている。新たに入部した東国御家人が熊野神社(新宮)を勧請する例も多く見られる。守護佐々木氏の本拠地富田庄にも城下に熊野新宮が勧請され、その地は新宮谷と呼ばれるようになった。
 長海庄と弁慶伝説の関わりを考える上では枕木山の華蔵寺の存在も大きい。鎌倉後期に臨済宗寺院に変わるまでは天台宗寺院であった。出雲国最大の天台宗寺院鰐淵寺と伯耆国大山寺のほぼ中央に位置している。そうした中で弁慶が鐘を鰐淵寺まで運んだとか、弁慶がこの地で産まれたという伝承が生まれたのであろう。その時期とは義経の人気が高まった一五世紀はじめ以降であろう。なお、枕木町にも熊野神社はある。また、中世には枕木保が成立し、文永八年の地頭は東長田郷と同じく長田蔵人であった。当時任官するには多額の謝礼が必要だとされており、出雲国衙の在庁官人とはいえ、その経済力の強さがうかがわれる。
 最後に問題となるのが、弁慶が産まれたとされる地は長海本庄と新庄のいずれであろうか。これまでなんとなく、新庄町付近の南部が新庄で、本庄町付近の北部が本庄であろうと思ってきたが、その一方で、本庄町の北側にある清安寺曹洞宗清安寺は戦国期の文書には「長海新庄清安寺」と明記されており、単純な分割ではないようである。この地=新庄は尼子氏から隠岐氏に与えられていた。

弁慶誕生伝説の背景3

 問題は領家であるが、新庄は戦国期に至るまで徳大寺氏の庄園として続いている。徳大寺氏の祖実能は待賢門院の兄である。その子幸子は藤原頼長の室となったが、乱の前年に幸子が死亡すると実能は美福門院に接近し、保元の乱の影響を受けずに、乱後には左大臣となった。この孫が頼朝がその死に対して大変残念がった実定であり、前述のように頼朝の側近梶原景時を美作国目代に起用し、義経都落ち後には頼朝が推薦した議奏公卿に選ばれた。また、実定の甥公国は大江広元の娘を室としている。長海新庄は文永八年の時点で大原郡加茂庄とともに地頭が補任されていない本所一円地であった。加茂庄は幕府成立直後に東国御家人土屋実遠が地頭に補任されたが、代官の濫妨行為をうけて頼朝が地頭を廃止した。承久の乱後再び東国御家人伊北氏が地頭に補任されたが、加茂庄の庄官そのものは承久の乱で京方として活動していないとして、再び地頭が廃止された。
 長海庄が属する上西門院領では平家方となるものは少なかったとされるが、一方で平忠度が島根郡内に城を築いたとの伝承や、平家との関係の深い蓮華王院領である加賀・持田庄が郡内にあるなど、庄官が平家方となった可能性も否定できない。長海本庄の領家については明証を欠いているが、文永八年の地頭持明院基盛が注目される。持明院氏もまた待賢門院と深い関係を有していた。一二世紀半ばに活動した持明院通基の室は待賢門院官女で上西門院の乳母であった。その子通重は徳大寺公能の娘を室とし一条家の祖となる。その子能保は頼朝の妹坊門姫を室とし、幕府の京都守護も務めた。通重の同母弟基家が持明院家を継承し、上西門院因幡を室とし、その間に生まれた基宗が持明院家を継承した。基宗もまた上西門院帥局を室とし、その間に生まれた持明院家行が、承久の乱後の出雲国知行国主に選ばれた。持明院家と頼朝以来の幕府との関係と、家行の伯母が朝廷の実質的代表となった後高倉院との間に後堀河天皇を生んだ北白河院であったことも影響したであろう。
 家行の子家定は公家でありながら幕府に祗候し、家行の娘は四代将軍頼経の室となっている。家定と幕府の重臣二階堂基行の娘との間に生まれたのが、基盛であった。基盛は母が基行から譲られた関東御領丹波国大沢庄の預所兼地頭を継承した。これに対して、長海本庄でも預所兼地頭であった可能性が高い。となると長海本庄も関東御領となる。長海本・新庄は上西門院の死後、後白河の娘宣陽門院が本家となったが、建長四年に死亡したため、その養女となっていた後堀河院中宮近衛長子(鷹司院)に譲られ、院が死亡した建治元年以降は持明院統(後深草上皇)が本家となった。一方、文永八年の秋鹿郷と志々塚保の地頭としてみえる「持明院殿」が後深草院ではなく室町院であることはすでに述べたとおりである。地頭職が守護によって寄進されたのである。実際の支配は守護が行う。

弁慶誕生伝説の背景2

 このような義経も八月一四日に改元され文治元年となって以降、頼朝との対立が表面化し、一〇月一八日には義経が後白河院から頼朝追討の院宣を得て、九州と四国の武士を指揮する権限を得て対抗しようとしたが、都周辺には支持者がいないため、一一月三日には頼朝が派遣した追っ手から逃れるため摂津国から船で西国に落ちようとしたが、天候の悪化で失敗し、弁慶とともに追っ手の追求を避けつつ、奥州藤原氏のもとに逃れた。
 頼朝は義経の引き渡しを要求するが、藤原秀衡は応じず、頼朝はその機をうかがっていたが、そうした最中、頼朝が出雲国知行国主藤原朝方と目代兵衞尉政綱が義経と結んでいるとして、その解任を求めた。朝方は解任され、政綱の身柄は幕府の派遣した役人に引き渡された。この政綱は元暦元年四月に頼朝から批判を受けた武士であり、本ブログでは最初の出雲国で守護的役割(守護という名称はまだ使用されず)を担った武士だと考えている。御家人大井実春はすでに元暦二年正月には因幡国目代となっており、二月には頼朝と関係の深い徳大寺実定の知行国である美作国目代に梶原景時が補任されている。頼朝の存在は京都でも知られており、平家への批判が強まる中で伊豆国に配流されていた頼朝に期待し、これと連絡をとる動きも少なからずあった。
 兵衞尉政綱の出雲国目代補任も梶原景時の目代補任と同時期であろう。そして政綱が頼朝のみならず義経との関係を有していた可能性も大きい。知行国主朝方も藤原清衡の依頼をうけて藤原敦光起草の「中尊寺建立供養願文」を完成した能筆家藤原朝隆と中尊寺落成に朝廷の勅使として派遣された顕隆(朝隆の異母兄)の娘との間に生まれており、奥州藤原氏とは関係を有していた。また朝方は後白河院の室忻子のもとで皇后宮・皇太后宮の大夫を務めていたが、そこでは義経の母常盤の再婚相手一条長成も同僚であった。常磐と長成の子能成は義経の都落ちに同行している。
 さて、鎌倉初期の出雲国目代政綱と義経の関係に続いて、問題は弁慶の出生地との伝承がある本庄である。平安末期には上西門院領長海庄とみえ、文永八年までには長海本庄と新庄に分かれていた。上西門院領は母待賢門院領を継承したものが多く、彼女が死亡する久安元年(一一四五)年までに庄園として立券されていた可能性が大きい。頼朝も平治の乱で伊豆に配流されるまでは上西門院に仕えていた。長海庄の本家であった上西門院は文治五年に死亡しているが、その現地における管理者として目代で幕府御家人である兵衞尉政綱は最適の人物であろう。弘安五年六月二八日に出雲国守護佐々木泰清が長海本庄で頓死したのも、守護と長海庄との関係を示していよう。

弁慶誕生伝説の背景1

 この問題については、現在に至るまで旧出雲国(島根県東部)内で何度も言及されてきたが、新たな論点もなく同じ事が繰り返されているのみである。なぜ松江市本庄での出生説が生まれたのかについて、述べてみたい。論点としては、弁慶が仕えた義経と出雲国の関係と本庄という場所が出雲国でどのような意味を持ったかである。
 最初の問題については、義経と頼朝に関係する出雲国内に残る文書である。いずれも後に作成されたものではあるが、一定の背景のもとに作成されている。日御碕神社文書に二通の文書が残されている、一通は摂津国一の谷の戦の直後の①元暦元年三月三日大将家(頼朝)袖判下文であり、御崎検校政近の代官である弟三郎政盛の軍功に対する感状である。ただし、一の谷の戦には多くの出雲国武士が平家方として参加しており、事実とは異なっている。二通目は②元暦二年三月二日検非違使五位尉源義経願文である。屋島の戦いと壇ノ浦の戦いの間のもので、「日御崎明神」は杵築宮の分体であるとしてその加護を求めている。三月末に平家を滅ぼした直後の四月に頼朝は義経をはじめとする東国御家人が頼朝の許可無く任官しているとして、個々の名前を挙げてこき下ろしている。その中には出雲国目代となる兵衞尉政綱も含まれているが、その多くはその後も活躍しており、これにより失脚した人物はいない。
 義経と頼朝の関係悪化についても、有名な腰越状は後世作成されたもので、その関係悪化は八月に伊予守に任官した以降であるとの説が有力になっている。義経は元暦元年八月一六日に左衛門尉に補任され、九月一八日には異母兄範頼が三河守に補任されたのと同時に五位尉となった。そして翌元暦二年正月に殿上人として院内に出仕した際に因幡国目代で守護の有力候補である東国御家人大井実春が飯垸を勤めたのである。②が「五位尉」としているのは正しいが、「日御崎明神」との表現は一四世紀後半以降に使われる表現である。『梁塵秘抄』のように聖のすみかとしての「日の御崎」(その先の海上から日が昇る)との言葉はあるが、神社は「御崎社」(杵築の神の前にいるという意味で「三前」とも表記)であった。
 以上のように、①②ともに偽文書ではあるが、海戦である壇ノ浦の戦いに赴く前の義経が願文を捧げるというのはありうる状況と考えたのであろう。益田家文書にも元暦二年六月の義経発給文書が含まれている。以前は腰越状の後のもので疑問が出されていた。文書が失われたため後に作成されたものであることは確かであり、その内容の個々の点についても検討の必要はあるが、一定の記憶に基づき再構成されたものであろう。義経は出雲・石見国に文書を出す権限を認められていたのである。

2018年5月 6日 (日)

廊御方についての補足

 「本朝皇胤紹運録」にも諸本があり、国会図書館所蔵本(文亀壬戌に三条西実高が禁裏本を写したものを基本とする。デジタル版を公開)と京都大学附属図書館蔵平松文庫本(筆写に関する記載なし、デジタル版を公開)には性恵法親王の母を「三条公親女子」と記すが、天文八年の写を基本とする大和文華館所蔵本(国文学研究資料館がデジタル版を公開)や早稲田大学図書館所蔵本(デジタル版を公開)には性恵法親王について妙法院導教僧正弟子と記すが母に関する記載そのものがない。写本の比較検討については小倉慈司氏『本朝皇胤紹運録』写本の基礎的研究(『国立歴史民俗博物館研究報告』第一六三集、二〇一一年)がある。
 三条氏の出身で亀山上皇との間に子をなした女性として、一二六八年に良助(りょうじょ)法親王(青蓮院座主),一二七一年に年聖雲(しょううん)法親王,一二七二年に覚雲法親王を生んだ「三条局」がいる。その父親は三条公親の叔父左中将実平である。ただし、三人の男子の生年からすると、永仁三年(一二九五)の流産の記事の廊御方とは別人である可能性が高い。
 総合的に考えて、三条実親女子が杵築社領家廊御方と考えてよかろう。
(参考)
良助法親王 母三条局正三位左中将実平女  青蓮院 無品 座主(大和文華館所蔵本、天文八年の写ヵ)、母三条房 実平卿女 山 無品 青蓮院常寿院 座主(国会図書館所蔵本、文亀壬戌年の写ヵ)
性恵法親王 妙法院導教僧正弟子、無品 上野綾小路(大和文華館所蔵本)、母内大臣公親公子 山 無品 妙法院(国会図書館所蔵本)

貞永二年正月の除目2

 この除目については「国司一覧」(『日本史総覧』)も混乱している。この除目で藤原隆盛が美濃守に補任されたことはわかるが、分国主については北白河院・後堀河院・中宮(九条道家の娘竴子、後の藻璧門院)のいずれが分国主であるか識別ができない。「明月記」正月二九日条には「土佐・院分、美濃・大殿、備後・又可為院分」とあり、美濃国が道家の知行国となったとの理解もできる。播磨は予定どおり後堀河院分国となったが、美濃国は九条道家の娘である中宮の院分国とし、そのもとで父道家が知行国主として国守を任命するという配慮がなされたのだろう。嘉禎元年閏六月二三日には道家邸で民部権少輔藤原親嗣と美濃守惟長(源、寛喜三年正月正五位下)との間で闘諍があったように、道家が美濃知行国主であった。惟長は延応元年六月一三日に道家が行った仏事にも「奉行人惟長」がみえる。暦仁元年三月九日に道家女子が熊野に参詣した折にも「美濃守惟長(春ヵ)」がみえる。
 播磨国の場合は代替が九条家出身の中宮の分国備中国であったので、近衛殿が辞退したのでそのままとなった。ただし「明月記」天福元年四月九日条によると除目で平時高が備中守に補任されているが、右府卿(右大臣近衛兼経)分と注記があり、紆余曲折の後に受け取っている。
 当初、この除目の結果が何度史料を読んでもわからなかったが、ようやく理解できた。院分国のもと知行国主がいるというケースは珍しくなかったが、国守の任命権を分国主が持つケースもあった。「備中国をめぐる争奪戦」と同様の駆け引きが様々に行われていたが、治天の君たる院がその気になれば、かなり強引な分国・知行国・庄園(領家)の変更も可能であった。

貞永二年正月の除目1

 「民経記」貞永二年(一二三三)正月二四日条によると、近衛殿の知行国播磨国と北白河院の知行国美濃国がいずれも後堀河院の分国に変更されるとの噂が流れ、翌二五日条によると実際に院分国とされ、国守(播磨は藤原家定、美濃は藤原隆盛)が補任された。近衛殿には播磨国の替わりの知行国が進められるとの噂があったが、無沙汰であった。前年秋にもあった噂が関東上洛後沙汰やみとなっていたが(八月二十三日に陸奥国と交換する形で備中国が中宮の分国となる)、最近、九条道家の御使壱岐前司行兼が関東から上洛後、其の沙汰が出てきた。この問題については、松島周一氏「寛元四年の「院分国」尾張をめぐる攻防」(「愛知県史研究」二〇号、二〇一六年)でも、寛元四年の事例の理解のため言及されているが、その必要上から一部にのみの言及に留まっているので、確認する。
 播磨国を院分国とするのは道家の使者派遣後動き出したとあるように、首謀者は朝廷随一の実力者で関東申次の役割も果たしていた九条道家であった。前年の秋の時点では西園寺公経の知行国伊予国を院分国とする動きもあったが、こちらは院分国のもとで西園寺氏の知行国が温存されたので実現したが、近衛殿(松島氏は家実とし、国司一覧は兼経とするが、後述のように後者が正しい)の播磨国の場合は、そのような配慮がなかったため、実現に至らなかった。
 正月の除目では播磨・美濃両国とも院分国となり、美濃国に替わる北白河院の分国は若狭国となり、藤原隆氏が国守となった。若狭国を知行してきた園基氏は年来治部卿平親長卿が知行してきた薩摩国を替えとして拝領し、橘重国が国守になった。次いで三〇日条によると大殿(九条道家)の分国であった土佐も院分国(当初は道家知行国で源教行が国守という除目であった)とされ、藤原家教が国守となった。これに対して前年八月に陸奥国を関東御分国としたことで中宮の分国となった備中国が近衛殿に対する配慮(播磨国の替え)とされたが、辞退して受け取らなかったという。また備後も院分国となった。

2018年5月 5日 (土)

九条家領美談庄の成立2

 林木庄預所に補任された長兼の経歴をみると、九条家との関係としては文治五年五月一五日に兼実の娘任子が後鳥羽天皇のもとに入内することが決まった際に、兼実の家司としてみえている。建久元年四月二六日には任子の中宮権大進に補任されている。次いで建仁二年(一二〇一)末に藤原氏の大学別曹である勧学院の別当となっている。翌年に九条兼実の子良通が氏長者となり、元久三年三月に三八才で急死するまでその地位にあった。長兼の母も信西入道の娘で、父長方とともに学問に関係する家系ではある。
 長兼と出雲国との接点を強いてさがせば、建久六年(一一九五)一一月一二日に後鳥羽天皇の蔵人に補任され、建仁元年末まで務めたことであろうか。途中の建久九年正月には新天皇土御門が即位しているので、鳥羽から土御門の蔵人へそのまま横滑りしたのであろう。中断を挟んで元久元年四月には土御門天皇の蔵人頭となっている。出雲国との関係は?との問が予想されるが、当時の出雲国は院の近臣藤原朝方が建仁元年二月に六七才で死亡するまで長きにわたって知行国主を務め、その子が出雲守となっていた。前述のように、朝方の子朝経が建久八年一二月に急死し、当座の処置として出雲守と後鳥羽天皇の蔵人に補任されたのは、九条兼実の娘宜秋門院のもとで中宮権大進であった藤原清長であった。清長はその直後の建久九年正月には新帝=土御門天皇の蔵人にも補任され、建仁元年(一二〇一)八月二九日までその任にあった。清長は朝経の死により後鳥羽天皇の蔵人であった藤原長兼の同僚となり、土御門が即位した際には共にその蔵人となっているのである。建久六年末に出雲守に補任された清長を通じて、九条家家司某に美談庄が寄進され、それが後に九条家当主に寄進されたのではないか。寄進者については、隣接する国富郷地頭に補任されていた内蔵氏関係者とこの地域を間に挟んで楯縫郡と神門郡に勢力を持っていた勝部宿祢一族が有力である。承久の乱後の勝部宿祢惣領となった朝山氏の子孫は九条家諸大夫として存続している。
 美談庄は承久の乱後、出雲国守護佐々木義清が地頭となった。
(補足)九条家領林木庄としてアップしたが、過去に言及した内容と重複し且つ問題があり削除して美談庄に改めてアップした。

九条家領美談庄の成立1

 美談庄は建武三年八月二四日九条道教家領目録に「出雲国林木・美談両庄領家職」とみえ、九条家が領家として預所を補任する庄園であった。応安三年には九条経教が祇園社に祈祷料所として寄進している。林木庄については平安末期以来の史料が残っているが、美談庄については現時点で確認できず、九条家領となったのは九条道家が惣処分帳を作成した建長二年から建武三年の間である。
 ただし、末次保が建長二年以前に九条家家司藤原長倫の寄進により九条家となったのと同様の状況が考えられる。末次保の成立時期は不明だが、長倫が建保五年(一二一七)正月二八日に出雲権介となったのが、長倫への寄進の契機となったと思われる。美談庄の九条家への寄進は建長二年以降であるが、庄園としての成立は鎌倉初期ではないか。平安末期には皇嘉門院領となっていた林木庄の立券については、保元三年四月から平治元年(一一五九)閏五月まで出雲守であった平基親が関係している可能性がある。基親も摂関家家司としての一面を持っていたが、同じ保元三年四月に伯耆守に補任された源光宗が一年で交代したのを受け、基親は伯耆守に遷任し、仁安元年(一一六六)八月まで務めた。父親範が知行国主であったと思われるが、親範自身も久安四年(一一四八)正月から保元元年(一一五六)正月まで二期八年伯耆守を務めていた。
 出雲国西部には後に近衛家領となる高陽院領福頼庄が一二世紀以前に成立しており、仁平三年には楯縫郡万田庄をめぐり鰐淵寺唯乗房と源義広の家人久木新大夫との間で合戦が起こっている。唯乗房は鰐淵寺との深い関係を持つ勝部宿祢一族の可能性があり、新大夫が苗字とする楯縫郡多久郷内久木は南側の出雲郡に向けて大きく張り出した領域であった。久木の南に隣接するのは福頼庄である。美談庄の成立に西隣の林木庄の成立が影響した可能性は大であろう。ただし、平基親以降の出雲国司はほとんどが院近臣であり、摂関家との関係は弱い。

 

2018年5月 3日 (木)

京極家譜から

 京極家譜に土屋(小芦)氏が明徳の乱で没落することが記されているので、史料編纂所に所蔵される写本で原文を確認した。丸亀藩主京極氏(松江藩主の子孫)が残していた系図(明治四年に家督を相続した高徳が提出)で、他の佐々木氏系図にはみられない詳細な記述もみられる。
 佐々木高綱が乃木善光寺の前身となる御堂を建立したのは建久元年(一一九〇)二月一五日だとし、当時は出雲守護であったとする。当ブログは藤原朝方のもとで出雲国目代を務めていた東国御家人兵衞尉政綱が出雲守護(名称については問題としない)であったとの立場であり、政綱が義経との関係で目代を解任された後の守護が佐々木高綱であったのではないか。建久二年には伯耆国大山寺に等身地蔵を建立し、田三町を寄進している(大山寺縁起)。
 兄京極高光が応永二〇年(一四一三)に三九才で死亡したが時点で嫡子持高は一三才であり、二八才であった叔父高数(一般的には生年は不詳とされる)が家督を代行し、持高が二〇才となった応永二七年冬に持高が名実ともに京極氏の当主となった。持高は後継者がないまま永享一一年(一四三九)正月に三九才で死亡し、再び叔父高数が家督を代行した。ただし、二年後の嘉吉の乱で将軍義教とともに「犬死」し、持高の弟持清が継承した。永享一〇年には持高が鎌倉公方足利持氏鎮圧のため出兵し、翌年には兄の死により服喪の状態であった三三才の弟持清が出兵したとする。持清の出家は寛正五年であったが、実際には文明二年に死亡するまで実権を持っていた。
 系図には尼子氏初代高久について、祖父道誉から譲られていた近江国甲良庄尼子郷に加えて、明徳の乱による恩賞で父高詮が出雲守護と旧山名氏領などの闕所地を得たことにともない、明徳三年六月一一日には出雲国出雲郡内千巻北別府を与えられ、次いで七月五日には大原郡近松庄を与えられたとする。後者の近松庄に関する高詮安堵状(書状)は伊予佐々木文書として国会図書館が所蔵し、現在ではカラーの画像をネット上で閲覧できる。宛名にみえる「尼子六郎左衛門尉」が高久で、尼子氏惣領は「六郎」を名乗り、庶子である出雲尼子氏当主は「四郎」を名乗る。「伊予佐々木氏系図」はある時期には丸亀藩主の関係者が所持していた可能性が高い。この時期に宍道氏の祖となる秀益も所領を与えられたのだろう。
 明徳三年に出雲国に入った京極高詮は六月八日には杵築大社に出東郡千家・北島両村を寄進している。こちらは寄進状なので書状ではなく直状形式である。古代の「出雲郡」が「出東郡」に変わったことを示す初見史料だとされるが、京極家譜によれば直前の高久宛の文書では「出雲郡千巻北別府」と表記されていた。系図の引用ではあるが、間違える可能性は低く、両立するように考えれば、明徳三年から出雲国支配を開始する守護京極氏が従来の出雲郡を出東郡に変更したのではないか(誤記に訂正する)。鎌倉・南北朝期の文書で郡名が記されているものはほとんどないが、明徳年間以降に急に増加してくる。京極氏はその支配開始の時点から郡奉行を設置した可能性も高まっており、実態把握と体制整備の中での変更ではないか。背景としては斐伊川の流れの中心が日本海への西流から宍道湖への東流に変わりつつあり、それに伴い出雲郡の領域が減少し、西側は神門郡に編入された。状況の変化は以前から始まっていたが、体制整備の一環としての変更であったと思われる。前守護山名満幸は行方をくらましており、なおその与党も国内にはいたと思われる。

2018年5月 1日 (火)

領家と幕府の文書

 領家ではなく幕府から御家人として神主に補任されたとの主張をする国造は、宗孝以来ということで、元暦元年一〇月二八日の頼朝下文を作成した。次いで、宗孝から孝房への譲状と、幕府成立を受けての文治二年正月日土肥殿下文を作った。当然、孝房を神主に補任するためのものである。その前提となる頼朝下文を作らなかったのは花押の変化など難しい問題があったからであろうか。いずれにせよ、五月に孝房が停止されているとの『吾妻鏡』の記述との整合性を図らなければならなかった。また、領家側の提示する領家下文を頼朝が安堵する形が誤りであることを印象付けるためでもあったろう。
 次いで三代将軍実朝の文書が問題となった。承元二年九月二六日の頼朝下文により国造孝綱が大庭・田尻保地頭職に補任された文書があったはずであるが、後に孝綱系と弟政孝系の間で国造をめぐる対立があったため、政孝系にはそれが伝わらなかったのであろうか。当然、そうした文書が存在したことは周知の事実である。
 一方、御家人であった証拠として右大臣家御教書があげられているが、これはライバル中原孝高が神主であった承元年間のもので、建暦三年との追記のある八月二一日領家藤原雅隆袖判御教書もその宛名「杵築神主」は国造孝綱ではなく、中原孝高である。孝高が承久の乱で没落する中で、その文書を入手・保存したのだろう。これらの文書には具体的名前が出てこないため、国造家が神主であった証拠文書とすることが可能である。逆に孝高宛とはっきりわかるものは不利なので処分したと思われる。
 幕府と国造家の関係が密になったのは出雲国守護佐々木泰清が国造義孝が大庭田尻保地頭職を安堵されたことを通じてであった。神主補任権を持つ領家方では当主の相次ぐ死により、実態を踏まえて主体的な補任などをする余裕はなく、さらには杵築社本殿の造営旧記を有することが神主職をめぐるライバルに対する優位性となった。神主を牽制するために設置された権検校も国造の関係者が補任され、世襲されるものとなった。

偽文書の作成時期再論2

 これを覆すためには、根拠となる文書の偽造と裁判を行う幕府関係者の贔屓が必要不可欠であった。現在残されている関係する偽文書(承久二年一一月一三日関東下知状や嘉禎二年六月五日関東御教書は政孝流と対立する孝綱流が作成した別物だが元徳元年までには作成されていた)はこの裁判に関する下知状が出された正和三年までには作成されていたことは確実である。孝時側は神主が御家人所帯であると主張して正和三年には認められたようであるが、領家雑掌側が主張するように引級=贔屓があったとしか思えない不当な判断であった。両者の提出した文書を確認すれば、国造側が提出したものが偽文書であり、頼朝は領家の補任を安堵・追認することしかできなかったことは明白であったが、国造側に荷担した奉行人が、領家側の文書を不審とする国造側の主張を採用したのだろう。
 建武三年の孝時申状は神主職に関して正和三年八月二七日関東下知状で敗訴した孝助による越訴に対して作成されたもので、そこで述べられた問題は過去の幕府法廷で議論されたものであった。ただし、鎌倉幕府が滅亡したことにより、前回とは異なる判断が示される可能性が高かった。その後の経過を示す史料は残されておらず、建武元年には雑訴決断所牒により、前雑掌の濫妨停止が命じられたことと、貞和二年八月に杵築社領内で本所雑掌と千家孝宗の間で合戦が行われたことしかわからない。建武元年の時点では前年一二月に杵築社の本所号(本家・領家)が停止されたため「前雑掌」と呼ばれているが、貞和二年は「雑掌」であり本所復活により裁判が継続していたことは確かであろう。
 以上を踏まえ、偽文書の作成時期についてまとめると、①弘安四年三月に国造義孝が申状を作成したが、遷宮時には常に国造が神主であったことを通じて、国造が神主を独占していたことを主張。②領家廊御方のもとで出雲実政が神主に補任されたのに対して、神主は御家人である国造が補任されてきたことを国造泰孝が主張。この時点で作成した文書と次の③の時点で作成された文書の識別は難しいが、幕府側の引級により勝訴したと考えられる。本来は国造とは無関係であった三代将軍実朝の書状や領家雅隆の御教書、さらには建長元年の頼嗣が義孝を大庭・田尻保地頭に補任した文書を根拠としたと思われる。
 ③領家に兼嗣が復帰し、泰孝から国造・神主を譲られた孝時は領家からの補任状を得ていなかったので、所領問題を含めて領家・雑掌側が孝時を攻撃し、それを覆す支証を持たない孝時は幕府と相談しつつ偽文書を作成した。その一方で、国造家内部の相続争いもあり、宗孝流の正当性や孝綱流から政孝流に国造が交代したことを正当化する文書を作成した。
 ここでは直接関係しないので触れなかったが、鎌倉初期に過去の記録の都合の良い部分をピックアップして作成した「治暦・天永旧記」も偽文書ではないが、ある意味では歴史を偽造する文書である。以前述べたように、一つひとつの文書は正しくても、その一部のみを残すことで歴史を偽造することができる。歴史研究者はそれに対応できる力量を備えなければ、結果として歴史の偽造に手を貸すことになる。

偽文書の作成時期再論1

 以前、作成時期について検討したが、今読み直すとあまりにも問題が多いので、再度論じたい。
  領家松殿兼嗣の元では、国造側が幕府から神主に補任されたと主張することなど不可能であった。関係文書は揃っており、本家である土御門院やその母承明門院に訴えることはできても、領家の判断を変えることはできなかった。幕府の口入を得て、造営文書の所持を理由に、ようやく文永一二年正月に神主に補任されるのが精一杯であった。
 その国造家に立場を強化する新たなチャンスが来たのは、本家が亀山上皇に交代したことで、領家兼嗣が退けられたことであった。新たな領家某御房からはさっそく弘安八年には阿語・太田郷を与えられている。弘安四年三月に国造義孝が作成したのは、過去の遷宮時には必ず国造が神主を兼ねていたという歴史の偽造のみであった。
 その後、領家は三条廊御方に代わったが、そこで出雲実政が神主に復帰したため、国造泰孝がこれを幕府に訴え、裁判が行われた。これまで幕府は口入することはあったが、一歩進んで問題に関わったことになる。その最初の判断が正応五年七月九日関東御教書で出され、泰孝が御家人である上に重代として造営旧記を帯しているので、泰孝を神主に補任して造営を行わせるべきというものであった。ただし、決定権は領家にあるので、六波羅探題を通じて廊御方に申し入れた。これに対して実政が越訴を行ったが、永仁五年二月一一日に幕府が退けている。ただし問題は、この裁判と平行して元の領家兼嗣が廊御方との間で領家をめぐる裁判を行っていたことであった。
 兼嗣は嘉元三年の亀山上皇の死により、領家に返り咲いたと思われる。すると出雲真高(実政父)の関係者である孝助が雑掌となって、神主である国造家を圧迫し始めた。実政自身は過去に兼嗣への不忠により神主を解任されているので、実政の復活は不可能であり、杵築社とは無関係な中納言僧都の祗候人となり、その所領の預所となった。一方で、国造家も徳治二年一二月五日には泰孝が譲状を作成し、孝時に国造と神主並びに所領を譲っているが、間もなく亡くなったと思われ、この点も孝助側にはチャンスであった。孝時は領家による神主補任状も得ていなかったのである。こうした領家と雑掌による攻勢に対して、国造孝時が雑掌による押領を幕府に訴え延慶二年から裁判が始まった。そのテーマは神主職と杵築社領であった。先例を知らない廊御方と異なり、兼嗣のもとには永暦年間に藤原光隆を領家として杵築社領が再立券された以降の文書が残されており、神主の補任権が領家にあるのは明白であった。

領家藤原光隆の下文2

 ただし、予期せぬ事態として東国御家人である目代兵衞尉政綱が、頼朝と対立して奥州藤原氏のもとへ逃れていた義経との関係を有しており、頼朝は義経を滅ぼす際の不安を除去するため、政綱の解任を求め、政綱を拘束した。さすがに、政綱の後任を頼朝が推薦することは考えがたく、これにより頼朝の御家人である政綱が目代、資忠が惣検校というコンビで進められたきた体制にヒビが入り、資忠が関係する隠岐国の問題を含めて報告を受けていた後白河上皇は、頼朝に資忠の解任に同意することを求めたと思われる。そして、造営終了目前に、遷宮の際に御神体を抱懐する国造孝房を惣検校にすべきとの後白河の要請に妥協して、頼朝は資忠の解任に同意し、領家光隆も惣検校に孝房を復帰させた。
 遷宮が終わると国造孝房と内蔵資忠の両方から惣検校補任を求める請文が提出されたと思われるが、光隆は頼朝の要請を受けて、惣検校を資忠に交代させた。これをうけて国造孝房とそれを支持する人々が働きかけ、国衙在庁官人が孝房を支持する解状を提出した(実際には国造が作成したものに署判したのみ。同時に過去の国造補任文書についての粉失状も作成した。その背景については宗孝流が出雲宿祢内の新興勢力であったから)。しかし、領家光隆は頼朝との連携を重視して、重代相伝だとして資忠を神主に補任し、これをうけて頼朝も政所下文と袖判下文で安堵したのである(やはり以下の様に復元してみた)。
領家下文
    (花押)
下 杵築大社神官等
 補任惣検校職事
  内蔵資忠
右人依為重代相伝者所補任彼職也、御神事以下御年貢諸役可令勤仕之状、所仰如件、神官等宜承知、勿違失、以下、
 建久三年七月 日

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