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2018年5月 7日 (月)

弁慶誕生伝説の背景5

 長海庄とはどの範囲に及んでいたのであろうか。『島根の地名』には長海町から本庄町までが長海本庄、新庄町が長海新庄とするが、清安寺の問題があるので、両庄の領域が錯綜していた可能性もあると逃げている。地図をみて気になるのは、上宇部尾と下宇部尾という地名である。当然セットとなるものであるが、上宇部尾は新庄町の南に、下宇部尾は旧美保関町にあるように、離ればなれとなっている。
 勝手に想像すれば、この上宇部尾から下宇部尾までが長海庄内ではないかということである。長海のもととなった長海神社が本庄町ではなく、長海川流域の谷=長海町内にあることも、現在の状況からは不自然にみえる。本庄川流域は長海川流域よりはるかに大きいが、素人目に気づくのは大きな溜め池の存在である。長海町には地図上では海蔵寺という寺院もみえるが、なぜか、最新版の島根県宗教法人名簿には掲載されていない。この海蔵寺をブログでは戦国期に相国寺から訪れた惟高妙安が滞在した「海蔵寺」に比定した。そのことも、佐々木泰清頓死の地であることとともに、室町期以降のこの地の重要性を示している。
 長海庄はその名の通り、長海川周辺地域の開発が先行していたが、一二世紀前半に上宇部尾から下宇部尾に及ぶ広大な地域が囲い込まれて待賢門院に寄進され成立した。その当時の本庄川流域については上流域から谷の出口までの谷の開発にとどまっており、長海川流域が主であるのに対して従の位置に留まっていた。
 長海庄が寄進・立券された一二世紀前半には松江市域では安楽寿院領(鳥羽上皇)佐陀庄や成勝寺領(崇徳上皇)揖屋庄が成立している。これに対して一二世紀後半に成立したのが、蓮華王院領(後白河上皇)加賀庄、歓喜光院領(建春門院)来海庄、最勝光院領(建春門院と高倉天皇)大野庄である。その後、本庄川下流域の開発が進む中、新開発地を中心とする地域が長海新庄として独立したが、本庄川北側の耕地部分と海岸地域は長海本庄内とされた。弁慶生誕地とされる場所は長海村内である。本庄地域は中世を通じて中海から松江市街地北部を結ぶ海陸の拠点であり、物流の中心として様々な情報が流入し、その中で弁慶生誕地という伝承が生まれたと思われる。

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