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2018年5月12日 (土)

杵築社領の本家4

 嘉元四年八月晦日書状の中で、松殿兼嗣(信煕)は某殿に経済的支援を受けることに感謝するとともに、追加があれば年貢が万疋の地である杵築社領西千家村を進めることを述べている。一期の後は大姫宮御方に進め、その後は五辻氏惣領に返すことを約束するとともに、自分が早世した場合は毎年二千疋を自らの後継者に下されるよう、披露を求めているが、その相手が誰かは記されていない。翌年二月一九日の書状は端裏書から五辻殿に宛てたものであることがわかる。去年申し入れた千家村の進上、姫宮は一期分であること、自らの死後は二千疋を下さるように述べて、返事を求めており、前年の書状の宛先が五辻殿であったことが判明する。
 問題は五辻殿と大姫宮が誰かである。すでにみたように永嘉門院は正安二年(一三〇〇)生まれの養子邦良親王を通じてその母五辻宗子と関係を持っていた。邦良の父後二条天皇の母西華門院(基子)は堀川具守の娘で、祖父基具の養女として後宇多上皇の後宮に入った。永嘉門院は堀川基具の従姉妹である。五辻宗子の父宗親は乾元元年(一三〇二)一二月二五日に死亡しており、その兄親氏と叔父宗氏とが考えられるが、宗氏は亀山上皇の死をうけて嘉元三年(一三〇五)九月一七日に出家しており、親氏となる。一方大姫宮とは、嘉元四年にはすでに院号を与えられているが、永嘉門院であろう。一旦は、父宗尊親王が相続するはずの室町院領の相続を認められたが、まもなく取り消しとなり、大覚寺統系の庄園の領家を務めていたが、十分ではなかった。
 この文書は国立歴史民俗博物館所蔵の田中本古文書に含まれているが、その中には南北朝後期に杵築社領を獲得する山科家の文書が含まれており、一連のものであろう。領家松殿氏の文書を入手し、藤原光隆との関係を背景に、土御門親王家に代わって幕府から杵築社領の支配を認められたと思われる。ともあれ、二通の信煕書状から、永嘉門院=土御門姫君(大姫宮)が元亨三年に杵築社領本家職を返される以前に、その領家職の一部を得ていたことになる。そしてその文書は後に山科家が入手していた。

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