koewokiku(HPへ)

« 都の雨に | トップページ | 佐橋庄南条の譲与 »

2018年5月20日 (日)

毛利北条氏について3

 北条氏惣領時元の後継者が経高なら北条高時との関係も推定できる。その子は晴良とするのものもあるが、関係史料が残っていない。そして孫である長広以降は、延広―広栄と名前に南条氏惣領の通字である「広」を付けるようになる。
 北条氏の氏寺である専称寺には応長元年八月二二日前丹後守大江朝臣寄進状写が残っているが、康正三年六月一九日丹後守大江広栄寄進状によると、前年に専称寺が炎上し代々の寄進状が失われたため、再度、判形を改めて寄進したとしている。田村氏は応長二年の寄進状の信頼性に疑問を呈しているが、広栄により作成された確実な文書の写である。同年一一月二七日には南条駿河守広信が庄屋条内の田を寄進している。そこには、以前からの寄進地であったが、南条氏惣領宮内少輔と北条氏が仲違いをした際に、南条氏から専称寺への寄進が途絶えてしまったことが述べられている。宮内少輔殿とは宮内少輔入道道幸であろう。当初は北条・南条氏ともに反幕府方であったが、幕府への帰参をめぐって対立が生じたのであろう。広信は親衡領庄屋条と加納条を相続した人物の子孫であろう。その名前からは匡時系ではなく直広系であろうか。 北条氏惣領が「広」の一字を使うのは、南条氏との関係である可能性が高い。

 以上をまとめると、越後毛利氏の全体の惣領は佐橋庄内北条を支配した基親の子孫であり、南条を支配した時親流では時親の嫡子貞親の子である宮内少輔道幸が惣領で、石曽祢殿と呼ばれた。これに対して南条内庄屋条と加納条を支配した親衡の子孫は庶子であった。ただし、道幸の庶子朝広系安田氏が生き残り、惣領北条氏が戦国期に没落する中、その保有する康応元年の義満袖判下文を入手し、現在に伝えたのではないか。安堵された毛利大膳大夫入道道依とは北条氏惣領であるとすべきである。その意味では佐藤・山田氏の説にも一理はあった。「大膳大夫」とは大江広元が補任された官職であり、その一族がこれに補任されている例は少なからずあり、法名に「道」の字を使う例も多い。田村氏の研究により前進した面もあるが、逆に後退したと言わざる面も少なからずある。新潟県立歴史博物館のHPの比定とともに再検討していただきたい。

« 都の雨に | トップページ | 佐橋庄南条の譲与 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 毛利北条氏について3:

« 都の雨に | トップページ | 佐橋庄南条の譲与 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ