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2018年5月 7日 (月)

弁慶誕生伝説の背景3

 問題は領家であるが、新庄は戦国期に至るまで徳大寺氏の庄園として続いている。徳大寺氏の祖実能は待賢門院の兄である。その子幸子は藤原頼長の室となったが、乱の前年に幸子が死亡すると実能は美福門院に接近し、保元の乱の影響を受けずに、乱後には左大臣となった。この孫が頼朝がその死に対して大変残念がった実定であり、前述のように頼朝の側近梶原景時を美作国目代に起用し、義経都落ち後には頼朝が推薦した議奏公卿に選ばれた。また、実定の甥公国は大江広元の娘を室としている。長海新庄は文永八年の時点で大原郡加茂庄とともに地頭が補任されていない本所一円地であった。加茂庄は幕府成立直後に東国御家人土屋実遠が地頭に補任されたが、代官の濫妨行為をうけて頼朝が地頭を廃止した。承久の乱後再び東国御家人伊北氏が地頭に補任されたが、加茂庄の庄官そのものは承久の乱で京方として活動していないとして、再び地頭が廃止された。
 長海庄が属する上西門院領では平家方となるものは少なかったとされるが、一方で平忠度が島根郡内に城を築いたとの伝承や、平家との関係の深い蓮華王院領である加賀・持田庄が郡内にあるなど、庄官が平家方となった可能性も否定できない。長海本庄の領家については明証を欠いているが、文永八年の地頭持明院基盛が注目される。持明院氏もまた待賢門院と深い関係を有していた。一二世紀半ばに活動した持明院通基の室は待賢門院官女で上西門院の乳母であった。その子通重は徳大寺公能の娘を室とし一条家の祖となる。その子能保は頼朝の妹坊門姫を室とし、幕府の京都守護も務めた。通重の同母弟基家が持明院家を継承し、上西門院因幡を室とし、その間に生まれた基宗が持明院家を継承した。基宗もまた上西門院帥局を室とし、その間に生まれた持明院家行が、承久の乱後の出雲国知行国主に選ばれた。持明院家と頼朝以来の幕府との関係と、家行の伯母が朝廷の実質的代表となった後高倉院との間に後堀河天皇を生んだ北白河院であったことも影響したであろう。
 家行の子家定は公家でありながら幕府に祗候し、家行の娘は四代将軍頼経の室となっている。家定と幕府の重臣二階堂基行の娘との間に生まれたのが、基盛であった。基盛は母が基行から譲られた関東御領丹波国大沢庄の預所兼地頭を継承した。これに対して、長海本庄でも預所兼地頭であった可能性が高い。となると長海本庄も関東御領となる。長海本・新庄は上西門院の死後、後白河の娘宣陽門院が本家となったが、建長四年に死亡したため、その養女となっていた後堀河院中宮近衛長子(鷹司院)に譲られ、院が死亡した建治元年以降は持明院統(後深草上皇)が本家となった。一方、文永八年の秋鹿郷と志々塚保の地頭としてみえる「持明院殿」が後深草院ではなく室町院であることはすでに述べたとおりである。地頭職が守護によって寄進されたのである。実際の支配は守護が行う。

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