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2018年5月12日 (土)

杵築社領の本家3

 正安三年一二月日延暦寺東塔東谷仏頂尾衆徒申状によると、日吉十禅師社領近江国得珍保の所領を堺を接する羽田庄側が押領していることを訴えている。前領家室町院の時代に一旦解決したが、現領家土御門姫宮の時代になってから押領が復活したとする。羽田庄は昭慶門院領目録には按察使(藤原頼藤)殿と重経がみえ、山門供料所五〇石が記されているが、これは室町院領時代のことで、その後永嘉門院領となっていた。
 『花園天皇宸記』元亨三年七月二一日条に、室町院領の問題で永嘉門院が訴え、右大将のもとへ院宣が出されたことが記されている。九月四日条には関東へ訴えたという説も記されている。 永嘉門院は亡父宗尊が譲られるはずであった所領について、再度相続を求めたのではないか。その背景としては後宇多上皇とその異母妹昭慶門院の状況が影響した可能性が大きい。翌四年に後宇多は五八才で、昭慶門院も五四才で死亡するが、永嘉門院は後宇多の嫡孫邦良も養育しており、後宇多が存命中に諸問題に決着を付けることを目指したと思われる。元亨三年七月二七日関東執奏状をうけて八月一四日には後醍醐天皇綸旨が出され、大覚寺統領の一部が返されたが、所領の中に安嘉門院から亀山上皇、さらには後宇多上皇に譲られてきた杵築社領があったと思われる。
 最大の問題は室町院領の相続(越訴)であった。『花園天皇宸記』元亨四年三月九日条には室町院領の内建長元年に式乾門院から宗尊へ進めた所領を折中するとの伝聞が記され、幕府への批判が述べられている。一九日条には永嘉門院から関東の沙汰につき連絡があり、二〇日条には返還がなされるが、これに恨みを記しつつ、去年既に永嘉門院に返したのに今又返還するのは尤も以て不審と記す。これが正中元年一二月二九日条には一転して、関東から正安四年落居改動され難しとの結論が伝えられたことが記されている。花園は女院に引汲の仁の所為だと批判しているが、決定が覆ったのには後宇多の死も影響か。

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