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2018年5月 9日 (水)

正平一二年正月日北島貞孝申状3

 貞孝の訴えを受けた直冬から孝宗に事情を尋ね、孝宗から支申状が提出され、それを受けて、孝宗が国造継承の火継ぎ神事を行ったことの証拠の提出が求められ、併せて国内の地頭一〇余人にも確認したが、立証はできなかったとする。この点は貞和五年に両者の裁判が幕府でなされた際にも、孝宗が証拠として提出した康永二年五月一六日付の母妙善妙善書状(国造五郎宛)について、孝宗が母の自筆で保管してきたものだと主張したのに対して、貞孝方は偽文書だということも言わずに、関知しないと述べ、これが幕府奉行人によって裏封(現状変更を許さない為の処置)がなされている。建武元年八月一〇日の孝時から清孝への譲状については、孝宗が佐草禅光の筆になるものと主張したのに対して、貞孝方は謀書だと答えたことが記されており、妙善書状には関知しないとはそれ以前の問題(論外)だというのであろう。両者にとっては事実は明白で一致していたが、裁判をしている以上は自らに不利となる事実を認めるわけにはいかないのである。この点は今の日本の政治状況と全く同じであるが、過去は今更変えることができないが今の問題は放置していてよいわけがない。こんな状況(将来的には失われた~年と呼ばれることは必定)を一日でも早く変えることが歴史に学ぶということである。
 この貞孝の訴えを受け、半年後の六月一七日には後村上天皇綸旨が出され、仮殿造営と三月会の沙汰を貞孝が行うよう下知すべしとされたが、九月一七日には出雲守護が遵行をしていないとして、早急に遵行すべしとの綸旨が出された。守護は富田秀貞であった可能性が大きいが、現地の状況を知っておれば、体制を変えれば混乱は必定であり(幕府方につけいる隙を与える)、両国造体制を解消できなかったのであろう。文書の残り方を見ても、国造の当番は一月交替ではあっても、杵築大社政所そのものは千家方が握っていたことがうかがわれる。正平一三年一二月j二一日には杵築千家五郎宛の綸旨も出されており、神職については一同に沙汰を経なければならないと述べるとともに、祈祷の精誠を抽んずべきことを命じており、南朝も現状を追認せざるを得なかった。

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