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2018年5月 9日 (水)

正平一二年正月日北島貞孝申状2

 侍所頭人細川奥州とは顕氏のことで、貞和二年八月から観応元年一一月までその地位にあったことが確認できる。この時期、尊氏・師直・師泰が足利直冬討伐のため都を留守にした隙を突いた直義が南朝方に下っていたが、顕氏が直義に属したため、幕府は細川頼春・清氏に顕氏討伐を命じている。侍所頭人の後任は仁木頼章であった。このため、侍所奉書の時期の特定は困難だが、貞和二年末から三年にかけての時期であろう。三年八月以降は顕氏も南朝攻撃に参加している。このことがあったため、国造北島貞孝のみに命令が出された可能性もある。この後、貞和五年には両者の裁判が幕府で行われていたことがわかる。
 次に問題となるのは、足利直冬が安来に来た際に北島貞孝が自らの安堵を求めた時期である。これは直冬が石見国を発して出雲国に入り、山名時氏とともに上洛した正平九年から一〇年の時期であろう。正平九年九月一〇日には直冬が某神六に対して出雲国での忠節に対して感状を出している。その、苗字の部分が塗抹ないしは判読が困難とされる理由は不明である。国造孝時と弟で尼覚阿が生んだ孝景と国造清孝はいずれも「~三郎」であったが、清孝に問題があったため一期分の国造となり、その跡は弟である六郎貞孝が継承する形となったため、「神六」とは貞孝である。直冬は九月二六日には祇園社祀官法印御房に対して幸晴を祈祷のため出雲国安来に派遣したことに対して礼状を出している。京都の寺社も直冬の動向に強い関心を持っていたことがわかる。東福寺などは所領法吉・末次庄の安堵を求め、反幕府方の土屋・松田・富田氏が請文を提出している。
 当時の出雲国は山名氏が幕府を離脱して出雲国に攻め込んだ正平八年以降は、反幕府方が優位に立っていた。国外に遁れた守護代吉田厳覚に代わって幕府方の中心となっていたのは朝山義景であったが、反幕府方との合戦では一族内も分裂し、且つ戦死者を複数出していた。国造も三月までは幕府方の「文和三年」を使用していたことが確認できるが、直冬・時氏による京都占領が短期間で失敗して退却した正平九年~一八年の間は杵築大社と御崎社に残っている文書はすべて「正平」年号を使用している。

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